アントニヌス・ピウスとは、大規模な戦争などは行わず文化や外交に注力した皇帝です。
アントニヌス・ピウスは、慈悲深い皇帝と呼ばれています。
法改革の促進や今までにない属州の管理体制を敷いて、安定させた統治を行ったことで評価されています。
この記事では、
- アントニヌス・ピウスという人物像
- 生い立ちから皇帝即位までの出来事
- アントニヌス・ピウスの治世は平和だった
- アントニヌス・ピウスの晩年
- なぜ、慈悲深い皇帝と呼ばれるのか
上記について筆者の考えも交えながら解説していきます。
好きな箇所から読んでみてください。
アイキャッチ出典画像: Roman Emperor Antoninus Pius

maru
そんな、アントニヌス・ピウスの生い立ちや治世について解説します。
タップできる目次
アントニヌス・ピウスはどんな人?
.jpg)
- 何代目: 第15代ローマ皇帝
- フルネーム: ティトゥス=アウレリウス=フルヴス=ボイオヌス=アッリウス=アントニヌス
- 生没: 86年〜161年 (享年74歳)
- 在位: 138年〜161年 (22年)
アントニヌス・ピウスは五賢帝の四人目の皇帝。
領土拡大の戦いを繰り広げた先々代トラヤヌス、長い年月をかけて国中を巡察した先代ハドリアヌスに対し、大規模な戦争は行いませんでした。
それゆえに、大きな災いもなく反乱もなく平和な時代が訪れました。

maru
アントニヌス・ピウスの年表

西暦(年齢)
- 86年 (0歳)
- ローマの南方の都市ラヌウィウムにて、執政官経験者の父ティトゥス・アウレリウス・フルウィウスと、母アリア・ファディラの間に誕生
- 当時の皇帝はローマ皇帝第11代ドミティアヌス(35歳)
- 幼少期
- 父が死去。母は後に再婚
- 96年 (10歳)
- ドミティアヌス帝(45歳)暗殺される
- 第12代ローマ皇帝としてネルウァ帝(60歳)即位
- 98年 (11歳)
- ネルウァ帝(62歳)死去
- 第13代ローマ皇帝としてトラヤヌス帝(44歳)即位
- 111年 (25歳)
- 財務官(クアエストル)に就任
- 111年~115年頃(25歳〜29歳)
- ファウスティナ(年齢不詳)と結婚
- 117年 (30歳)
- トラヤヌス (63歳)が死去
- 第14代ローマ皇帝としてハドリアヌス帝(41歳)即位
- 法務官(プラエトル)に就任
- 120年 (34歳)
- 執政官(コンスル)に就任
- 135年 (49歳)
- アシア属州の総督に就任
- 138年 (51歳)
- ハドリアヌス帝(61歳)の後継者ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス(36歳)が結核により死去
- ハドリアヌス帝と養子縁組、後継者に指名される
- ただし、アントニヌス・ピウス死後には、甥のマルクス・アウレリウス(16歳)とルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの息子ルキウス・ウェルス(7歳)の二人を後継者とすることを約束させられる
- ハドリアヌス帝死去(62歳)
- 第15代皇帝として即位
- 元老院がハドリアヌス帝の神格化を拒んだため、元老院と対立
- ハドリアヌス帝の業績を否定するなら自分の養子縁組(及び即位)も無効にせよと迫って、ハドリアヌス帝の神格化を認めさせる
- 140年 (54歳)
- 妻ファウスティナ死去
- 妻ファウスティナが元老院によって神格化される
- 148年 (61歳)
- ローマ建国900年祭開催
- 名声がますます高まる
- 161年 (74歳)
- ローマ近郊のロリウムの別荘で病死
- マルクス・アウレリウス(39歳)とルキウス・ウェルス(30歳)が共同統治帝として即位
アントニヌス・ピウスが皇帝として即位するまで
-1.jpg)
23年間もの間治世を安定させたアントニヌス・ピウスは、どのような生い立ちを送っていたんだろう?

ぽん太

maru
これから、アントニヌス・ピウスの生い立ちから皇帝即位まで紹介していきますね。
アントニヌス・ピウスの幼少期
.jpg)
ローマの都市ラヌウィウム(現プラティカ・ディ・マーレ)にて、父ティトゥス=アウレリウス=フルウィウスと、母アリア=ファディラの間に誕生しました。
幼少期に執政官経験者の父親が死去し、第12代皇帝としてネルウァ帝が即位しました。
111年、アントニヌス・ピウスが25歳になる頃、高位な役職である財務官(クアエストル)に就任して、上流貴族としての立場を着々と継承していきました。
当時の王朝であるネルウァ=アントニヌス朝の一員であった大ファウスティナと結婚します。
二人は、政略結婚などではなく自由恋愛であったと言われていて、仲の良い夫婦でした。
それかも順調にキャリアも築いていき、49歳になる頃にはアジア属州の総督に就任して、国民や元老院からも一目置かれる人物となりました。
アントニヌス・ピウスは順調にキャリアを築いていったんだね!

ぽん太
アントニヌス・ピウスが皇帝として即位
-1.jpg)
138年、先帝であるハドリアヌスが後継者として選んだルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスが結核により死去しました。
同年、アントニヌス・ピウスの死後は甥のマルクス・アウレリウス(16歳)とルキウス・ケイオニウス(7歳)の二人を後継者とすることを約束させられ、第15代ローマ皇帝として即位します。
皇帝として即位した直後、元老院がハドリアヌス帝の神格化を拒んだため、元老院に涙で神格化を認めることを訴え神格化を認めさせます。
この行動は、主君に対するピエスタ(献身)であったと称賛され、元老院はハドリアヌス帝を神に祭るのと合わせて彼に「アントニヌス・ピウス(慈悲深きアントニヌス)」の称号を与えました。
アントニヌス・ピウスの治世に起きた出来事
.jpg)
アントニヌス・ピウスの治世は、
- 20年以上、軍事遠征が行われなかった
- 対ケルト人(北方民族)の襲撃に備えて長城を築いた
- アントニヌス・ピウスは、芸術・文化の保護に熱心であった
- 貧民救済を行った
- ローマ建国90年を記念して、祭を開催した
上記のような事柄が起きました。
アントニヌス・ピウスは、学問や芸術・文化の保護に熱心であり多くの劇場や神殿を建設しました。
学者達の報酬も引き上げて、国民全体に文化や芸術を浸透させます。
また、アントニヌス・ピウスはユダヤ教のラビ(司祭)で名高い神学者であったイェフーダー・ハン=ナーシーの友人でありました。
そのため、彼が生涯をかけて作り上げた『口伝律法』(英語: Oral law)の編纂を支援しました。
アントニヌス・ピウスは様々なことに関与していたんだね!

ぽん太

maru
これから、アントニヌス・ピウスが行った治世について紹介します。
20年以上に渡って、戦争が起きなかった
.jpg)
アントニヌス・ピウスの20年以上に渡る治世で大規模な軍事遠征を行った記録は一切残っていません。
そのため、隣国からいつ攻められてもおかしくない状況下であるのにもかかわらず20年以上に渡って戦争が起きませんでした。
また、皇帝自身がイタリア本土(首都ローマ)から出掛けることは一度もなかったことから、歴代の皇帝の中でも珍しい治世でした。
トラヤヌスやハドリアヌスは、遠征や巡察に忙しかったもんね!

ぽん太
属州を管理させる人材を適宜に配置して、彼らの仕事内容に応じて報酬を与えていました。
そのため、アントニヌス・ピウスは自ら赴くことないまま帝国を間接的に支配しました。
後の世界史においてもこの支配体制が真似られて、皇帝が国を治めていきます。
また、戦争が起きなかった要因としてローマの軍事力に恐れていたことも挙げられます。
戦争がない代わりに、外交でかなりの成果(お金を稼ぐ)を挙げていたといいます。
そのため、貿易や外交関係も発達して新たなものが生み出される時代でした。
後2世紀におけるローマ帝国の東方への拡大は, 従来, トラヤヌス帝以来の3度のパルティア戦争を中心に考察されてきた。帝国領自体は拡大しなかったが, この時代にこそローマ帝国は東方諸国に対する統制を強めていき, 対外的権威が著しく増大したのである。とりわけ, 黒海からアルメニアにかけての地域への支配はアントニヌス・ピウス帝の下で確立し, マルクス・アウレリウス帝のパルティア戦争はこの延長線上で理解すべきものであった。さらに, この体制を基盤として, セプティミウス・セウェルス帝以後, ローマがメソポタミアへ直接支配を拡大していくこともまた可能となったのである。
出典: 2世紀ローマ帝国の東方支配 ( 京都大学大学院文学研究科 )
京都大学大学院のローマ帝国の東方支配の論文では、アントニヌス・ピウス帝の治世について述べられています。
平和な統治の結果として、ローマがメソポタミアの直接支配を拡大していくことが可能になったと言われています。
あの広い領土で戦争が起きなかったのは、それだけ上手く支配体制が管理されていたんだね!

ぽん太
アントニヌス・ピウスの金貨が扶南(ベトナム)のオケオ遺跡から見つかった
.jpg)
アントニヌス・ピウスの在位期間に大規模な戦争もなかったこともあり、対外貿易も頻繁に行っていました。
そのため、港に近い都市には商人が現れ、他の国の文化や素材、硬貨がローマに入ってくることになりました。
ベトナムの南部にあるオケオ遺跡から、中国漢代の鏡などの遺物やローマ金貨があり、地中海から中国にいたるまで貿易が行われていたことが推測できます。
*ベトナムのオケオ遺跡は、2~7世紀の扶南国の文化を示す海港遺跡です。
対ケルト人(北方民族)の襲撃に備えて長城を築いた
.jpg)
先帝ハドリアヌスが、北方民族(ケルト人)の襲撃に備えられ作られた長城よりも北に新しく長城を築きました。
スコットランド西岸のクライド湾からフォース湾にかけて「アントニヌスの長城」を建設します。
約2年間で建設されましたが、明確でない理由により建設後わずか20年で放棄されました。
スコットランドの中世の歴史書では、アントニヌスの長城は「グリム堤」と呼ばれています。

maru
2008年に、アントニヌス・ピウスの防壁が世界遺産として登録されました。
アントニヌス・ピウスは、法改革に熱心であった
.jpg)
当時のローマ帝国には、属州も併せると様々な民族が入り混じって生活を営んでいました。
そのこともあり、アントニヌス・ピウスは多様な人々の文化や生活を交えて国が発展しなくてはならないと感じていました。
そのため、法律の改革やどのようにしたら様々な民族が同じように生活ができるのかを考えて交代でした。
今の世界では、当たり前のことですがこの時代では考えられない発想でした。
アントニヌス・ピウスが選抜した5人の法律の専門家により、法改革が大きく進められました。
- 奴隷の市民権獲得の条件が緩和
- 容疑者と罪人の立場を明確に分離
- 14歳未満の子供に対する拷問は禁止(特例を除く)
上記のような法律が新たに設けられ、以後引き継がれていきます。
この行動によって、後のカラカラ帝の治世では帝国内の市民に誰しもが平等な市民として認められる「アントニヌス勅令」(212年)が発令されるキッカケになりました。
アントニヌス・ピウスは妻の行動を引き継いで貧民救済を行った
.jpg)
アントニヌス・ピウスが貧民の救済を行ったことは広く知られています。
妻であるファウスティナは、貧しい市民に貧民救済を行ったと言われています。
140年、ファウスティナが死去するとアントニヌス・ピウスは妻の行いを引き継ぎファウスティナの名を冠した孤児院を建設して、貧民の救済を行いました。
妻の死に、非常に落胆し元老院の許可を得て妻を女神として神殿に祭って「ファウスティナ神殿」を建設しました。
市民や元老院から支持されていたため、市民も反乱を起こす必要性がなかったと言われているよ!

ぽん太
建国900年を祝った、ローマ建国祭を開催した
.jpg)
148年に、アントニヌス・ピウスが61歳になる頃。
初代ローマ王ローマルスがローマ建国を建国してから、900年が経ったことを祝ってローマ建国900年祭を開催しました。
ローマ市民は「黄金の世紀」を享受することができ、アントニヌス・ピウスの名声はますます高まりました。
アントニヌス・ピウスの晩年
.jpg)
アントニヌス・ピウスはどのようにして晩年を送ったんだろう?

ぽん太

maru
これから、アントニヌス・ピウスの晩年について紹介していきます。
アントニヌス・ピウスの崩御
.jpg)
ローマ建国祭から、13年が経ちアントニヌス・ピウスは74歳を迎えていました。
西暦161年、アントニヌス帝はロリウム市に滞在している所で熱病を患い、2ヶ月間に亘る治療の甲斐なく3月7日に崩御しました。
彼の遺骸はマルクス・アウレリウスらによって弔われ、同時にローマの中心地にあるカンプス・マルティウスに偉業を讃えた神殿が建設されました。
そのため、元老院からも国民からも愛されていた皇帝だということが推測できます。
皇妃であった大ファウスティナの神殿も「アントニヌス・ファウスティナ神殿」と改称されたね!

ぽん太
アントニヌス・ピウスの治世は長期間であった
-1.jpg)
アントニヌス・ピウスの治世は、長期間に及びました。
五賢帝であるネルウァ帝(在位期間: 96年〜98年)やトラヤヌス(在位期間: 98年〜117年)に比べるとそれだけ安定していた時代だったということが推測できます。
初代皇帝アウグストゥスについで2番目に長い治世を全うしました。
51歳に皇帝として即位したことを考えると当時としては驚異的な長さでした。
「アントニヌス・ピウス」の論文集

ここでは「アントニヌス・ピウス」についての論文を紹介します。
ぜひ参考にしてみてくださいね!
まとめ|アントニヌス・ピウスの治世は平和だった

さいごにアントニヌス・ピウスについてまとめました。
- 大きな幸もなく、平和な時代だった
- 「アントニヌス・ピウス」は元老院から与えられた称号
- 貧民救済を行った
- 北方民族に備えて長城を築いた
- ローマ帝国を他文化・多民族の国家に変えるため、法改革に熱心であった
- 建国から900年を祝う、ローマ建国祭が開催された
- ローマ史上、2番目に長い治世を全うした
アントニヌス・ピウスは、慈悲深い皇帝であり民衆にも優しかったと言われています。
行った対外政策や内政での政策は地味ですが、大きな戦争もなく平和を維持しながら文化や芸術、法律に力を注力したことが評価されている皇帝です。