カリグラ(12年〜41年)とは、キリスト教を史上初めて迫害した「ネロ帝」と並ぶほど「暴君」の代名詞として知られています。
そんな異名を持つ皇帝は、即位した当初は「幸福な7日間」とも称されローマ市民、ならびに元老院から名君として敬われていました。
しかし、命に関わる病を経ると「暴君」と名の付いてしまう逸話を残し始めます。
この記事では、
- 「カリグラ」というニックネームを付けられた幼少期
- ティベリウス帝との生活
- カリグラ帝即位
- カリグラの治世について
- 北方民族(ゲルマニア)や東方問題などの領土問題
- カリグラが携わった建築事業
- カリグラの最後
について解説していきます。
好きな箇所から読んでみてください。
「暴君」として有名なカリグラは、本当に暴君だったのかな?

ぽん太

maru
これから、カリグラとはどんな人物だったのか?生い立ちや治世におきた出来事についてご紹介しますね。
タップできる目次
カリグラとは、どんな人?
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カリグラのプロフィール
- 何代目: 第3代ローマ皇帝
- フルネーム: ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
- 生没: 12年〜41年 (享年28歳)
- 在位: 37年〜41年 (3年10ヶ月)

カリグラの年表
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西暦 (年齢)
- 12年(0歳)
- 父ゲルマニクス(27歳、ティベリウスの甥)と母アグリッピナ(26歳)の三男として誕生
- 14年(2歳)
- 初代皇帝アウグストゥス死去(享年76歳)
- 元老院の命令で父ゲルマニクス(29歳)がゲルマニアに遠征
- カリグラも同行して、兵士たちのマスコット的な存在となる
- ティベリウス(55歳)が第2代皇帝に即位
- ゲルマニアで反ティベリウスの反乱勃発
- ゲルマニクスの肯定の即位拒否
- 19年(7歳)
- 父ゲルマニクス(34歳)がシリアに遠征
- カリグラも同行
- シリアからの帰還直後、父ゲルマニクスがマラリアで死去
- 母アグリッピナ(33歳)と暮らし始める
- 27年(15歳)
- ティベリウス帝(68歳)がカプリ島に隠棲
- 首都ローマでは親衛隊長セヤヌス(47歳)の暴政が始まる
- 29年(17歳)
- 親衛隊長セヤヌス(49歳)の陰謀により、ティベリウス帝(70歳)への反逆容疑で母アグリッピナ(43歳)がパンダテリア島へ、長兄ネロ・カエサル(23歳)がポンティア島へ流刑となる
- 曾祖母で、ティベリウス帝の母にあたるリウィア(86歳)に引き取られる
- 30年(18歳)
- セヤヌス(50歳)の陰謀により、次兄ドルスス・カエサル(23歳)が皇帝への反逆罪で地下牢に幽閉される
- 31年(19歳)
- 長兄ネロ・カエサル(25歳)がセヤヌス(51歳)の陰謀により、流刑地で殺害される
- ティベリウス帝(72歳)が陰謀に気づき、セヤヌスを処刑
- マクロ(52歳)がセヤヌスに代わって親衛隊長に就任。後のカリグラの側近
- ティベリウス帝に引き取られ、カプリ島で共に暮らすこととなる
- 33年(21歳)
- 母アグリッピナが流刑地パンダテリア島で死去(享年47歳)
- 次兄ドルスス・カエサルが地下牢で餓死(享年26歳)
- 親衛隊長マクロ(54歳)との親交が始まる
- ティベリウス帝(74歳)より財務官に任命される
- 34年(22歳)
- 妻ユニア・クラウディアが死去。
- 35年(23歳)
- ティベリウス・ゲッメルス(16歳、ティベリウスの孫)とともにティベリウス帝(76歳)の後継者に指名される
- 37年(24歳)
- ティベリウス帝死去(享年77歳)により、第3代皇帝に即位
- 寛大な政治をおこない、ティベリウス帝時代に中止されていた剣闘士試合などを復活させ、市民から絶大な人気を得る
- リウィア・オレスティラ(年齢不明)と再婚
- 37年(25歳)
- リウィア・オレスティラを離縁し追放
- リウィア・オレスティラの父マルクス・シラヌスを陰謀罪で自殺に追い込む
- 減税をおこなう
- カリグラ最愛の妹ドルシッラ病死(享年21歳)
- 法務官や財務官などの各種政務官の選挙権および被選挙権を大衆に戻す
- 裁判抜きで側近のマクロ(58歳)を処刑。民衆の非難を浴びる
- 3人目の妻ロリア・パウリナと結婚し、年内に離婚
- 39年(27歳)
- 深刻な財政危機に陥る
- 大盤振る舞いの政治や、カリグラ自身の浪費が主因と考えられる
- 収入を増やすため、冤罪や暗殺により富豪の資産を没収したりしたため、民衆の不満が高まる
- 膨大な数の船を並べた浮き橋の上を愛馬で駆け抜けるという見せ物をおこない、財政危機に拍車をかける
- 元老院との対立が深まる
- 反乱未遂でガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスを追放
- 親友のアグリッパ(49歳)に領地を与える
- 40年(28歳)
- 同盟国マウレタニアのプトレマイオス王(41歳)をローマに招待し、突然処刑。マウレタニアを属国化
- 妹アグリッピーナ(25歳)とリウィラ(年齢不明)を、カリグラ暗殺を計画したとして流刑にする
- ブリタニア遠征失敗か?
- 自己の神格化を図るようになる
- 41年(28歳)
- 親衛隊長カシウス・カエレア(年齢不明)らによって暗殺される
- カシウス・カエレアらはカリグラの4人目の妻カエソニアを刺殺
カリグラの生い立ち
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カリグラの生い立ちは、どのような出来事が起きたのかな?

ぽん太

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これから、カリグラの生い立ちをご紹介していきますね。
カリグラの幼少期
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12年に、父ゲルマニクス(27歳)と母アグリッピナ(26歳)の三男としてアンツィオ(港町)で誕生しました。
父は将軍として名を馳せていたゲルマニクスです。
ゲルマニクスは、有能な指揮官でもあったので軍隊の支持も厚くローマ市民からも戦功と誠実な人柄から絶大な人気があったと言われます。

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カリグラの父であるゲルマニアと、その家族一団はローマ市民からも愛されていました。
「カリグラ」というニックネームの由来
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「カリグラ」という名称の由来は、父である将軍ゲルマニクスに従って幼い頃から戦場に赴いていたことがキッカケでつけられます。
子供用の装備をつけていたカリグラは、陣中に和やかな雰囲気を生み出していました。
そのため、兵士から付けられた愛称が「小さい軍靴を履いた可愛い少年」という意味の「カリグラ」と名付けられたといいます。
カリグラが皇帝として即位したときは、幼少期に共にした兵士たちはとても喜んだと言われているね!

ぽん太

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幼少期のカリグラは戦場のマスコットキャラみたいな存在として愛されていました。
父ゲルマニクスがマラニアで死去
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カリグラが7歳を迎えた時に、父ゲルマニクスと一緒にシリアの遠征に向かいます。
遠征から帰ってくると、ゲルマニクスは高熱を出して帰らぬ人となりました。
これには、帝国全土が驚いて大きな騒ぎになりました。
当時のゲルマニクスはピソによって毒殺で殺されたという説も流れました。
なぜなら、ゲルマニクスとシリア総督のピソは仲が悪くたびたび口論をしていたからだといいます。
現在では、マラリアで倒れた説が有力説となっていますが、裏付ける証拠もないためゲルマニクスの死は謎に包まれたままです。
第5代ローマ皇帝であるネロは、元老院議員のガイウス・カルプルニウス・ピソに暗殺されそうになるね。

ぽん太

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ピソによる暗殺計画は、五賢帝を開いたネルウァが阻止したと言われるね。
バラバラになる家族とカリプ島での生活
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父であるゲルマニクスの死後、幼いカリグラにとって苦難の日々が続きます。
バラバラになる家族
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父であり将軍であったゲルマニクス死後、母親であるアグリッピナと共に暮らしました。
アグリッピナは新しい夫と再婚したことが原因で、ティベリウス帝との関係が悪化していました。
なぜかというと、再婚した相手の地位がティベリウス帝にとって危険な人物だったので、彼女が再婚することまで禁じてしまします。
その数年後(29年)、アグリッピナとカリグラの長男であるネロ・カエサルが追放処分となります。
母と兄弟が追放されたのち、カリグラと残された姉妹たちは軍によって、常に監視される立場に置かれます。
カリグラの幼年期から青年期は理不尽な出来事が立て続けにおきるんだね。。。

ぽん太
カリプ島での生活
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カリグラが19歳になる頃(31年)、ナポリ湾を挟んで南にあるカプリ島に住んでいた、ティベリウス帝がカリグラを引き取りました。
首都ローマから離れいているカプリ島でティベリウス帝の元で約6年間の月日を共にします。
怒りや憎しみを見せると、殺されるかもしれなかったんだね!

ぽん太
カリグラは、生きるために母や兄弟を追放した憎きティベリウス帝のまえでも悪意や敵意を見せなかったと言われます。
ティベリウス帝の崩御とカリグラの即位
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ティベリウス帝の崩御がきっかけとなり、カリグラが皇帝として即位することになります。
これから、カリグラが次期皇帝に指名されるまでとティベリウス帝がどのように崩御を迎えたかについて説明するね!

ぽん太
カリグラが次期皇帝に決まるまで
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カリグラがカプリ島にきて2年が過ぎました。
同年、ティベリウスはクァエストル(財務官)の地位をカリグラに叙任します。
また、1年後にカリグラは親衛隊長官であるマクロ(52歳)とカプリ島での生活で親交が深まります。
ティベリウスの護衛に付いていたマクロは、日頃からティベリウスのカリグラに対する悪意や疑念を吹き払うように努めました。
これは、ティベリウスがカリグラに対して敵意や嫌悪感を懐かないために行っていた行動だと思われています。
35年、カリグラが孫であるティベリウス・ゲッメルスと共に次期皇帝として名が刻まれることが決まりました。
ティベリウス帝の崩御
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37年3月16日にティベリウス帝崩御(享年77歳)により、第3代ローマ皇帝として即位。
その遺産と「プリンケプス(第一人者)」の称号をカリウスと共同皇帝として後継者に指名されたティベリウス・ゲメッルスに相続されることになりました。
ティベリウス帝の死去については諸説あります。
ローマの歴史家として最も偉大とされるタキトゥスは、「カリグラの即位を早めた方がローマ市民も喜ぶ」と考えたマクロが、暗殺したのではないかと記してありました。
他方、ユダヤ人哲学者であるアレクサンドリアのフィロンの著作には「ティベリウスの死は自然死であった」と記録しています。
ティベリウス帝がどのように生涯を終えたかについては、諸説あり現在でも議論されています。
カリグラの治世に起こった出来事
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幼少期、青年期の厳しい日々を経て皇帝となったカリグラの治世はどのような出来事が起きたんだろう?

ぽん太

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ここから、カリグラの治世に起きた出来事について紹介していくね。
幸福の7ヶ月間
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カリグラが皇帝に即位すると、民衆から「我らの子」「我らの星」と絶賛され皇帝として迎えられました。
皇帝が即位した当初の人気は、ローマ為政者の中でも群を抜けて人気だったと言われます。
それには、
- ティベリウス帝に人気がなかった
- 英雄ゲルマニクスの子だった
- アウグストゥスの血を引いていたこと
- 顔が凛々しく、イケメンだったこと
- 悲しい幼少期を過ごしていたこと
上記のような理由が挙げられます。
初代ローマ皇帝であるアウグストゥスの人気に引けを取らないほど、父ゲルマニクスは市民から軍から支持されていました。
カリグラは、戦乱に立ったローマ軍団の兵士にとってはマスコットだった少年が父であるゲルマニクスが果たせなかった皇帝の座についたことが何よりも嬉しいことでした。
「カリグラが即位してから最初の7ヶ月の間は、幸福に満ち溢れた治世だった」と哲学者であるアレクサンドリアのフィロンが記しています。
古代のローマ人は美意識に強かったため、顔が整っていたカリグラには多くの支援者が募りました。

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これから、カリグラが治世当初に行った具体的な政策を解説しますね
元老院との寄り添う政策
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カリグラは、元老院との距離の測り方を大切にした皇帝です。
元老院は皇帝のいない共和制を望んでいるため、大多数が皇帝を批判します。
そのため、距離を作らずに寄り添うような政策を行い敵意を見せないことに徹します。
元老院に対して敬意を払い、意見に従って政治を行うと約束しました。
自ら元老院に忠実に従う姿や行動を続けて、ティベリウス帝や元老院からの信頼を徐々に得ました。
市民への政策が功を奏し人気を獲得
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カリグラはローマ市民から絶大な人気を誇っていました。
カリグラは市民たちの期待に応えるべく、様々な政策を行いました。
ティベリウスの遺産を市民たちへ下賜金を贈りました。
まず、廃止されていた剣闘士競技を復活させ、戦車競技と合わせて提供しました。競技を観覧した客には、食べ物を詰め合わせたカゴも配りました。
さらにカリグラは売上税(現代でいう消費税)を廃止して、低所得者を税金を使って保護しました。
また、政務官選挙を民衆選挙に戻しました。
このことから、カリグラが元老院の人気ではなく、市民の人気を得て政治の基盤を整えたかったことが推測できます。
軍の懐柔
将軍でありアウグストゥスの後継者と呼ばれていたゲルマニクスの遺児として、カリグラは軍団からとても人気がありました。
カリグラは、ローマの軍団に対しボーナスを出しました。さらに、ローマの属州にいる兵士たちにも提供したので、軍との絆も深まりました。
この頃の幼いローマ人は、カリグラに憧れて将軍になろうと志す者が多かったといいます。
病気がきっかけとなり、暴君へと豹変
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カリグラが即位し初めてから、2年が経った後に深刻な病を患って倒れます。
史実で、病気を詳細に書き残しているフィロンによると、皇帝となってから入浴と飲酒とセックスに明け暮れたことが原因だと述べています。
カリグラの病気は諸説あり、この出来事は帝国全体を不安にさせました。
ある元老院銀は、カリグラが治るのであれば剣闘士と戦うと言い出したり、全快した暁には自分の命を投げ出すという者でさえ現れました。
カリグラが全快した後、「もし状態が回復したら自分の命を投げ出す」といった忠実な元老院を呼び出して崖から突き落とすなどして何人か殺害しました。
病がキッカケで暴君としての道を歩むようになったんだね。

ぽん太

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五賢帝最後の皇帝である、マルクス・アウレリウスは天然痘で病没したとして知られるね。
財政危機と飢饉が発生
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カリグラの寛容な政治は、財政危機と食糧危機をもたらします。
お金を稼ぐことがどれほど大変か身を以て体験したことがなかったカリグラは、温泉のようにお金を使っていました。
古代の歴史家は、「カリグラは個人資産を徴収するために、殺害まで行った」と主張します。
国家の資金を得るために、市民に対して国にお金を貸してくれと頼んだとも言われます。
さらに、大規模でなくとも短期間ながら飢饉が発生しました。
カリグラの自由気ままな経済政策のために、市民の経済が壊されたと言われます。
カリグラの領土問題
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父であるゲルマニクスは偉大な将軍として活躍したことから、その子であるカリグラにも国民の期待がかかっていました。
しかし、カリグラには軍を引っ張っていく将軍として才能も軍師としての知恵もありませんでした。
軍事的成果も挙げることができず、上手く帝国内の軍にも近づきにくかったと言われています。

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ここから、わずか在位期間3年間の間に起こった領土問題について解説していきますね。
ゲルマニア・ブリタニア遠征
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39年頃、カリグラはゲルマニア遠征へと出発します。
このゲルマニア遠征では、軍事衝突は起きなかったが翌年(40年)に行われたブリタニア遠征のための下見であったと考えられます。
そのため、カリグラはゲルマニアの様子を確認するためライン川を渡り、ゲルマン人への牽制を済ませた後引き返したのではないかと言われます。
なぜなら、オランダにあるローマ時代の砦から、カリグラとカエソニアのコインが発見されています。このことから、周囲の建物や地形を把握しに来ただけだと推測されています。


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帝国東方の対応
カリグラの在位中に東方の属州でユダヤ人の反乱や暴動が相継ぎました。
カリグラとユダヤ人は、お互いを理解し合えることができなかったことで起きた出来事でもあります。
アレクサンドリアのフィロンによるとカリグラは「ユダヤ人のみが彼に対する叛意を抱く人々かのように、ユダヤ人に対しては特別に深い猜疑心をもっていた」と記しました。
ユダヤ人とカリグラの問題には、友人であり後のユダヤ領主となるアグリッパ1世が支えました。
39年、アグリッパはパルティアと共謀してローマによる反乱を企てたヘロデ・アンティパスを起訴。
カリグラから成果として領地をもらい、アグリッパはユダヤの大半を支配するようになります。

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マウレタニア併合
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カリグラは、北アフリカ西方(現モロッコ)にあるマウレタニアまで版図を拡大しました。
当時マウレタニアは、プトレマエウス王によって治められておりローマの同盟国でありました。

王であるプトレマエウス王は、ローマに対して恨みなどは持っていませんでした。
その理由は、子供の頃からローマで教育を受けており、ローマにとっても理想的な同盟国として知られていました。
しかし、カリグラはプトレマイオス王をローマに招待して、近づいた彼を処刑しました。
無理やりマウレタニア(現北アフリカ)を併合しましたが、親ローマである皇帝が訳もなく暗殺されたことを知ると各地でローマに対する反乱が発生しました。

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カリグラは、軍事的成果を挙げようと無理やりプトレマエウスを処刑したのかもしれません。
カリグラが手がけた建設事業
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約3年と10ヶ月間の在位期間のうちに、数多くの建築事業を興しました。
カリグラが行った主な公共事業には、以下のようなものが挙げられます。
- アウグストゥス神殿の完成
- アルプス高地に新都市建設計画
- エフェソス・ディディマにあるアポロン神殿の完成
- ギリシアの地峡に運河の開通を計画
- サモス島のポリクラテス宮殿を再建
- サプエタ・ユリア近郊に円形劇場を建設
- シラクサの市壁と神殿を修復し、道路を施設
- ガイウスとネロのキクルス(戦車競技場)を完成させ、エジプトから運ばせたオベリスクの中央に据える
カリグラは帝国が財政難に陥りながらも、数多くの建設事業を手がけたことでも知られています。

ぽん太

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これから、カリグラが着手した主な建設事業について紹介していくね。
穀物輸入に力を入れた港湾開発
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カリグラは港湾開発にも力を入れました。
具体的には、レギウム(現レッジョ・ディ・カラブリア)およびシチリアの港作りです。
この港湾開発は、最も優れた事業だったとヨセフスは評価しています。
この事業がキッカケでエジプトからの穀物の輸入量は増加したと言われます。
レギウム(現レッジョ・ディ・カラブリア)の位置は、シチリア島を挟んだ海岸の向こう岸です。
クラウディア水道を建設
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クラウディア水道はカリグラが38年から、52年にかけて完成させた水道です。
後の16世紀に、ローマ教皇シクストゥス5世がフェリクス水道を加えた形が現在の姿として残っています。
約69km離れた帝都ローマに美味しい水を運んでいました。
ローマ水道に関する専門家のセクストゥス・ユリウス・フロンティヌは、クラウディア水道を『ローマで最も壮大な水道である』と記しました。
古代世界において最大級規模となる船も作っていた
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カリグラは、古代世界に置いて最大級の規模を誇る船を作っていた頃が、1929年から1932年にネミ湖の底から発見されました。
この船は、大理石の床や水道まで完備しており、船の中に宮殿を施した設計がされていました。
船が引き揚げられた頃の、イタリア首相はムッソリーニでした。
船の保管を試みたが第二次世界大戦中の戦炎によって消失して、現在は数枚の写真を残すのみとなりました。
カリグラ帝は、こんな大きな船も作っていたんだね!

ぽん太

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2艘のうち1艘は、女神ディアーナのための神殿として作られたと言われいます。
カリグラの最後
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暴君となってしまった、カリグラ帝の最後はどのような出来事が起きたのかな?

ぽん太

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これから、カリグラの最後について紹介しますね。
元老院との対立
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財政悪化による、皇帝財産の強引な収奪によって、元老院との対立が深まります。
39年には、自身の収入を増やすため、冤罪や暗殺により富豪の資産を没収したため、一部の近衛兵太刀の間でも腸が煮えくり返っていました。
そのため、一部の元老委員議員によって暗殺計画が謀られます。
しかし、この計画は失敗し犯人たちは処刑されました。
カリグラが近衛隊副長に暗殺される
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カリグラを暗殺したのは、将校であるカッシウス・カエレアによって葬られました。
カッシウス・カエレアは、元ゲルマニア軍団の兵士であり、かつてはゲルマニクスの元で戦いを共にしたこともあります。
暗殺が決行されたのは、皇室主催の「パラティウム祭」の最中に行われました。カリグラが必ず通るであろう、狭い通路で待ち合わせをしました。
そして、神君アウグストゥスに捧げる喜劇や悲劇を上映していた少年俳優団に対して奨励の言葉をかけようとした瞬間に、カエレアが短剣を彼の懐に刺しました。
それに続き、共謀者も刺し続けました。
カリグラの死後
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カリグラが息絶えていることを知ると、護衛兵であるゲルマン人兵士は発狂したといいます。
暗殺者とその仲間を一網打尽にして、その会場にいた罪のない人までも殺害されました。
カリグラの後継者はいなかったため、一時的にローマ帝国に皇帝のいない時期が発生しました。
元老院は皇帝のいない共和政に戻そうとしました。
しかし、皇帝を守ることを職業として食いつないでる護衛兵(プラエトリアニ)によってクラウディウスが第4代皇帝として即位します。

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「カリグラ」の論文集

ここでは「カリグラ」についての論文を紹介します。
ぜひ参考にしてみてくださいね!
まとめ|寛大な政治を行ったカリグラ

さいごにカリグラについてまとめました。
- 父ゲルマニクスは、ローマ市民から元老院から支持された将軍だった
- 「カリグラ」は、父の遠征に同行した時に兵士から「小さい群靴を履いた可愛い少年」という意味の愛称
- カリグラの初期統治は「幸福の7日間」と呼ばれた
- 生死を彷徨う病気を経て、暴君となった
- 寛容な政治が財政危機と食糧危機をもたらした
- 軍事功績を残すことができなかった
- 3年という短い在位期間の中でも数多くの建築事業に着手した
- 近衛隊副長に暗殺され生涯の幕を閉じた
わずか3年の治世に、いろいろなことが起きたね!

ぽん太

maru
最後まで読んでいただきありがとうございます。