ハドリアヌス(76〜138)とは、古代ローマ市場最も統治に成功した皇帝の一人です。彼の20年11ヶ月に及ぶ治世は、ローマ帝国の領土と軍事力を最大なものにしました。
ローマ帝国第14代皇帝であるハドリアヌスは、属州の防壁や公共事業の充実、国境を保つことも注力しました。
これまでのローマ皇帝にはない多彩な才能を持っており、特に数多くの建築物を生み出したことが功績として目立ちます。
なかでも有名なのが、約118kmにも及ぶ「トラヤヌスの長城」です。
また、ハドリアヌスは古代ギリシア文学を好んだことから、子供の時は「グラクルス」(「小さなギリシア人」の意)の愛称で呼ばれました。
この記事では、
- ハドリアヌスの人物像
- 生い立ちから皇帝即位まで
- ハドリアヌスの治世
- 世界遺産にも登録された「ハドリアヌスの長城」について
- 同性愛者と周りに認知させた皇帝だったこと
- ハドリアヌスの晩年
について筆者の考えも交えながら解説していきます。
好きな箇所から読んでみてください。
タップできる目次
ハドリアヌスはどんな人?
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- 何代目: ローマ帝国第14代皇帝
- フルネーム: フルネームはプブリウス=アエリウス=トラヤヌス=ハドリアヌス
- 生没: 76年~138年 (享年62歳)
- 在位: 96年〜98年 (20年11ヶ月間)

領土拡大のための戦いを好まず、防御に力を注いだ皇帝として評価されています。
登山の愛好家としても知られており、シチリア島のエトナ山とシリアのアクラ山という山の登頂に成功しています。
また、のちの『ローマ法大全』(別名ユスティニアヌス法典)の基礎となる法典を完成させました。
ハドリアヌスの年表

西暦(年齢 )
- 76年(0歳)
- 第13代皇帝トラヤヌスの従兄プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス・アフェルを父として、ドミティア・パウリナを母としてローマで誕生
- 当時のローマ皇帝は第11代ドミティアヌス(25歳)
- 86年(10歳)
- 父アフェル死去
- 後のローマ皇帝第13代となるトラヤヌス(33歳)とアッティアヌス(年齢不詳)が後見人となる
- 93年(17歳)
- トラヤヌス(40歳)に引き取られ相続裁判所判事となる
- 96年(20歳)
- ドミティアヌス帝(45歳)に暗殺される
- 第12代皇帝にネルウァ帝(60歳)が即位
- 97年(21歳)
- ネルウァ帝(61歳)がトラヤヌス(44歳)と養子縁組
- ライン川で軍務についていたトラヤヌスにローマの軍隊からの祝辞を伝える
- 98年(22歳)
- ネルウァ帝(62歳)死去
- トラヤヌス帝(44歳)即位
- 101年(25歳)
- 財務官(クアエストル)に就任
- 105年(29歳)
- 護民官(トゥリブヌス・プレビス)に就任
- 第二次ダキア戦争で第1軍団を指揮
- 106年(30歳)
- 第二次ダキア戦争より帰還
- 法務官(プラエトル)に就任
- 107年(31歳)
- 下パンノニア属州(現在のクロアチア)の総督に就任
- 108年(32歳)
- 執政官(コンスル)に就任
- 114年(38歳)
- パルティア戦争でトラヤヌス帝の補佐役として、軍団の司令官として活躍
- 117年(41歳)
- シリア属州の総督に就任
- トラヤヌス帝(63歳)が都市国家ハトラ攻略に失敗、8月9日に病死
- アンティオキアに滞在中に皇帝に就任
- メソポタミア属州とアルメニア属州を放棄、ローマ帝国領から外す
- 「四執政官事件」勃発。ハドリアヌスに対する反乱を計画したとして、有力な元執政官4人をアッティアヌスが処刑
- 118年(42歳)
- シリアからローマに帰還
- 「四執政官事件」への関与を否認、諸説あるが真相は謎のまま
- ローマ近郊のティヴォリに65ヘクタール(65万㎡、196625坪)の敷地の別荘の造営を開始
- 美しい庭園と贅を極めた建物の数々を作らせる
- 121年(45歳)
- ガリア属州(現在のフランス)を訪問
- ブリタニア(現在のイギリス)を訪問
- 122年(46歳)
- ブリタニアを訪問。ケルト人の攻撃から領土を守るための城壁「ハドリアヌスの長城」の建設開始
- 130年(54歳)
- エジプト属州を訪問。美青年の愛人アンティノオス(18歳)がナイル川で船から転落して溺死
- 悲しんだハドリアヌスはこの地に彼の名を冠した「アンティノオポリス」という街を建設
- ユダヤ反乱(66~74年)の際に破壊されたエルサレムに、自らの氏族名アエリウスに因んだ名前の都市「アエリア・カピトリナ」建設を計画
- かつてソロモン神殿だった場所にユピテル神殿を建てようとしたため、ユダヤ人たちが反発
- 132年(56歳)
- ユダヤ人に割礼(ユダヤ教の掟のひとつで、男性器先端の包皮を切り取ること)を禁止
- シモン・バル・コクバを指導者とするユダヤ人の反乱(バル・コクバの乱)勃発
- ハドリアヌス自身も出征
- 135年(59歳)
- バル=コクバの乱鎮圧
- 136年(60歳)
- ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス(35歳)を養子とし、後継者に指名
- 138年(61歳)
- 後継者ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス(36歳)が結核により死去
- 138年(62歳)
- 後継者ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス(36歳)が結核により死去
- 義理の兄で元執政官のユリウス・ウルスス・セルウィアヌス(90歳)と、彼の孫のペダニウス=フスクスが自分の帝位継承を妨害すると疑い、強要して自殺に追い込む
- アントニヌス・ピウス(51歳)を後継者に指名
- 保養地バイアエで死去
- アントニヌス・ピウス即位
ハドリアヌスが皇帝として即位するまで
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多くの建造物を残したり、文化の発展に尽力をつくしたハドリアヌスは、どのような生い立ちを送っていたんだろう?

ぽん太

maru
これから、ハドリアヌスの生い立ちから皇帝即位まで解説していきますね。
ハドリアヌスの幼少期
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ハドリアヌスは、イベリア半島の属州で元老院議員(父アフェル)の息子として生まれました。
85年、ハドリアヌスが10歳の時に父親と死別する経験をします。
その後、皇帝となるトラヤヌス(53〜117)とアッティヌス(年齢不詳)に育てられます。
いくつもの官職に就いて、ゲルアマニア、シリア、ダキア(現ルーマニア)での戦いに従軍しました。
98年には、ハドリアヌスがネルウァの死去をゲルマニアと戦っているトラヤヌスに伝える大事な役割も担いました。
ネルウァは、五賢帝の幕を開けた皇帝として知られているね。

ぽん太
ハドリアヌスが皇帝として即位
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117年、ハドリアヌスが皇帝として即位するのは、シリア属州の総督に就任しました。
同年、トラヤヌス帝(63歳)が都市国家ハトラの攻略に失敗。
8月9日にトラヤヌスが病死したことで、アンティオキア(現トルコ)に滞在中に皇帝として即位することになります。
このとき、ハドリアヌスは配下の軍隊から「インペラトル(皇帝)」として歓呼されました。
ハドリアヌスが挙げた成果
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ハドリアヌスの特筆すべき業績は、
- 2度にわたる長期の巡察旅行
- 属州とイタリアの一体化に注力した
- 法制度における改革
上記の3つを挙げることができます。

ぽん太
これから、ハドリアヌスが挙げた成果について紹介するよ!
皇帝として多くの時間を属州の巡察旅行に費やした
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ハドリアヌスは、属州で従軍していた経験から、ローマ帝国の弱点を目の当たりにしていました。
彼は、皇帝に即位して直後に周辺の国や民族から攻撃された時に防衛することが難しい属州(メソポタミア 属州、アルメニア属州)を手放しました。
その代わりに、それ以外の領地を防衛するために要塞の建設を強化しました。
その結果、ハドリアヌスは、22~23年ぐらいの治世の間の半分は属州の巡察に努めました。
先帝であるトラヤヌスは好戦的な政策を実施しましたがハドリアヌスは帝国の防衛力を整備しました。
すぐ隣国に国や民族が迫っている地方では、防壁(リメス)や天然の災害に耐えられるように帝国の防衛をします。
ハドリアヌスは、総延長距離15万キロメートルにもなるローマ街道を旅行したんだね!

ぽん太

maru
ハドリアヌスは、旅行に出かけていたためローマにいることがほとんどないと言われていました。
属州とローマ帝国の一体化に注力した
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初代ローマ皇帝であるアウグストゥス帝の治世から、諸問題(属州との一体化)にも取り組みました。
これまでのローマ皇帝とは一転して、属州に対する姿勢を好意的なものへと変えます。
この出来事は、カラカラ帝によって発布された勅令である「アントニヌス勅令」(212年)によって帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられるキッカケになりました。
ハドリアヌスが属州とイタリアの一体化を進めたこともあり、このような勅令が出されるようになったんだよね!

ぽん太
法制度における改革に精進した
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ハドリアヌスは、『永久告示録』と呼ばれる法典を編纂して、帝国の法制度の整備も推進しました。
後に、534年に東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世が編纂させた『ローマ法大全』(別名:『ユスティニアヌス法典』)の基になりました。
これは、法務官が出した従来の告示(属州総督や属州の審判人の法源)を集大成したものです。
『ローマ法大全』は、大陸諸国の法の発展に大きな影響を与えました。
世界遺産にも登録された、ハドリアヌスの長城
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グレートブリテン島北部の長城は、122年に工事が開始され10年の歳月を経て、完成した長城です。
ハドリアヌスの長城は、西海岸のボウネスと東海岸のウォールゼンドを結ぶ約120kmの城壁です。
建設された理由は、北方民族(ケルト人)の襲撃に備えられ作られました。
ハドリアヌスの長城は1987年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
また、
- 2005年: ドミティアヌス帝が築いたドイツのリーメス
- 2008年: ハドリアヌスの後を継いだアントニヌス・ピウスが築いた防壁
も世界遺産に登録されました。
ギリシャ文化の虜になり、あごひげを生やした皇帝
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ハドリアヌスは、多くのローマ人と同じくギリシア文化への憧れを抱いていた皇帝でもありました。
そのため、帝国内のローマ人以外の人々にも関心を寄せて漢代に対応し、ギリシア文化を擁護しました。
彼は、86年法務官(プラエトル)であるトラヤヌス(33歳)が後見人となってから、ますますギリシャ文明の虜になりました。

ハドリアヌスの写真や彫刻を見てわかるように、あごひげを生やした皇帝です。
あごひげはギリシャ人のシンボルであり、医師や学術者など知的職業に就くギリシャ人はみな顎鬚を蓄えていたと言われています。
治世の半分を費やした巡察旅行では、憧れであるギリシャのアテネに半年間滞在していました。
その際に、火事で焼失したパンテオンを再建しました。
パンテオンは重要な建築物で、現在も残っています。
また、ハドリアヌスは幼少期のマルクス・アウレリウスを寵愛したことで知られています。

maru
ハドリアヌスは、相当ギリシャ文化が好きであったことが推測されます。
あごひげを生やした最初の皇帝はネロ帝だったね!

ぽん太
ハドリアヌスは、青年を愛し同性愛者であった
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ハドリアヌスは妻がいるのにも関わらず、子を持たず周囲には同性愛者だということを話していました。
旅の途中に出会った、ビティニア生まれの美少年アンティノウスを愛人として寵愛しました。
アンティノウスとハドリアヌスは、123年冬か124年春に出会ったと言われています。
130年に、ハドリアヌスがエジプトに訪れて、ナイル川で溺死してしまったこの青年を見つけます。
アンティノウスの死去を聞いたハドリアヌスは、何日かの間泣き続けたと言われています。
エジプト人はナイルで溺死したアンティノウスにオシリスの従者のイメージを抱き、この若者を神格化しました。
ナイル川沿いに彼の名を冠した「アンティノオポリス」という街を建設したり、星々の間にアンティノオス座を設定したりして、国民に失笑されることもありました。
翌年には、青年に限定して体操と音楽の競技、Antinoeiaという祭典が開催されました。
132年には、ユダヤ教の掟のひとつで、男性器先端の包皮を切り取ること儀式を禁止したよね!

ぽん太

maru
ハドリアヌスは、同性愛者であったことがわかりますね。
ハドリアヌスの晩年
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ハドリアヌスの晩年は、苦難の連続でした。
晩年に起きた、第二次ユダヤ戦争では戦争には勝利したものの、多くの犠牲を伴うことになりました。
養子を持たなかったことから後継者選ぶの際には元老院と対立することもありました。
また、崩御に際しては養孫である「哲人皇帝」マルクス・アウレリウスに綴った回想録に詩を残しました。

ぽん太
これから、ハドリアヌスの晩年に起こった出来事を紹介するね!
第二次ユダヤ戦争
戦争が起きた原因は、ハドリアヌスがエルサレム攻防戦でローマ軍に破壊されたエルサレムにも巡察に行ったことでした。
現地で、ハドリアヌスと側近はユダヤ人と対話をして同情します。その場でエルサレムの再建と修復を約束しました。
しかし、ユダヤ人は聖地エルサレムが「アエリア・カピトリナ」という名前に変えられることを知りました。
この名前は、ローマの最高神ジュピター(Juppiter)であったため、ユダヤ人の怒りが爆発します。
そのため、第二次ユダヤ戦争が勃発して多大な犠牲を払ったユダヤ人は国家(エルサレム)を失い離散(ディアスポラ)を余儀なくされます。
この戦いで、温厚であるハドリアヌスは何千ものユダヤ人を殺害しました。
歴史家のエドワード・ギボン(1737〜1794)は、
「ローマ軍の恐ろしさ、皇帝たちの穏健さに重みと威厳を加えた」
と表現しています。
エルサレムの地を属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスティナ」としました。
ハドリアヌスの崩御とその後
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もともと、健康頑健であったが晩年になり体調不良に苦しみました。
136年に、ルキウス=ケイオニウス=コンモドゥス(35歳)を養子として、後継者に指名しました。
しかし、翌年ルキウス=ケイオニウス=コンモドゥスが結核により死亡します。

後継者の死により、アントニヌス・ピウスを新たな後継者に指名します。
同年、ハドリアヌスが保養地バイアエ(現バーコリ)で崩御しました。
アントニヌス・ピウスは没したハドリアヌスを神格化する作業を拒む元老院に、
私は諸君に一切の指示を与えない。諸君は彼の行為の全てを無効にするのだろう。私の養子縁組もその一つだ(ハドリアヌスの神格化を拒否する元老院に対して)
上記の言葉を涙で訴え元老院から神格化について同意を得たとされます。
ハドリアヌスが歩くのも不自由になった頃、体を支えてあげたことや生まれつき思いやりのある人でした。
そのため、元老院からアントニヌス・ピウス(敬虔なアントニヌス)と呼ばれることになります。
ハドリアヌスの詩
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ハドリアヌスには、彼が書いた詩が残っていると言われています。
養子であった、後の皇帝であるマルクス・アウレリウスに向けて以下のようなことを記しました。
原文: Animula, vagula, blandula Hospes comesque corporis Quae nunc abibis in loca Pallidula, rigida, nudula, Nec, ut soles, dabis iocos... 日本語訳: 小さな魂、さまよえるいとおしき魂よ 汝が客なりしわが肉体の伴侶よ 汝はいま、青ざめ、硬く、露わなるあの場所 昔日の戯れをあきらめねばならぬあの場所へ降り行こうとする いましばし、共にながめよう この親しい岸辺を、もはや二度とふたたび見ることのない事物を 目をみひらいたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう・・・
「ハドリアヌス」の論文集

ここでは「ハドリアヌス」についての論文を紹介します!
ぜひ参考にしてみてくださいね。
まとめ|ハドリアヌスは、帝国の防御に徹した

さいごにハドリアヌスについてまとめました。
- 領土拡大を行わず、帝国の公共事業や防御に力を注いだ
- 約120kmにもなる、ハドリアヌスの長城を建設した
- ギリシャ文化に憧れを抱いていた
- 同性愛者であり、アンティノウスを寵愛した
- 後の「ローマ法大全」にもなる法律の基を作った
- 属州とイタリアの一体化に注力した
- ユダヤ人が離散(ディアスポラ)するきっかけとなった
ハドリアヌスは歴代のローマ皇帝の中でも高い評価を受けている皇帝です。
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