韓非子(?〜前223年)とは、戦国末の法家です。韓の王族の子であり、荀子に学びました。その著作『韓非子』は法家思想を集大成したものとなります。秦国が統治国家をする時に作った法律の礎を築きました。
韓非子は厳格な法治主義を主張して、富国強兵の礎となる思想を生み出しました。
韓非子は唐代(618年〜907年)までは「韓子」と呼ばれていました。
ですが、唐代の詩人である韓愈と名前が被ってしまうため『韓非子』と呼ばれるようになりました。
*この記事では名称を『韓非子』に統一して記述していきます。

maru
これから、韓非子とはどんな人物だったのか?その生涯や名言、始皇帝との出会いについて紹介しますね。
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韓非子の生涯

韓非子のプロフィール
- 本名: 韓非(韓非子
- 生没: ?〜前233年 (戦国時代)
- 出身地: 韓
諸子百家の法家である韓非子は、生涯をどのように過ごしたんだろう?

ぽん太

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これから、韓非子がどのような生涯を送ったかについて解説しますね。
韓非子は韓で生まれた
韓非子は、韓の貴族の子として生まれ、生まれつき重度の吃音症であったと言われます。
そのため、異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下されていました。
しかし、文才には長けていて、自分の考えを文章を通じて伝えるようになりました。
韓非子は、韓の貴族出身だったんだね!

ぽん太

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乾皮の生涯は、『韓非子』や『史記』にも記録されていないため、詳しいことはほとんどわからないと言われています。
韓非子が生まれた時代背景
韓非子の生まれた前280年ごろは、戦国時代の末期であり戦乱の時代でした。
そのため、多くの思想家たちが天下を立て直すために頭を捻っていたとされます。
その時代に、言論や思想の開花によって諸子百家と呼ばれる思想家が誕生しました。
諸子百家は、礼(道徳)で国を治めようとした孔子や兼愛非攻を説き、戦争を批判して万人を愛することが大切だと説いた墨子などが挙げられます。
韓非子は、法律の礎を築いた法家と呼ばれる思想を代表する人物です。
丞相の李斯とともに荀子の門下に入る
韓非子は始皇帝の李斯と同じ師匠の門下(弟子)に入ります。
宗派は、儒家であり「性悪説」を主張する荀子の下で日々学ぶことになります。
「性悪説」は、人は礼によって善へ導かれることだと説いたと言われます。
荀子は、諸子百家の中では「儒家」であり、韓非子は「法家」です。
そんため、道徳による統治のスタンスにも違いがありました。
荀子は「礼」による統治を主張しながらも道徳も大事だと言いました。
しかし、韓非子は道徳よりもまずは法律を作るべきだと強く主張したことが特徴です。
「礼」に対する思想家の特徴
- 孔子: 孔の成立過程には触れずに、「道徳」と「礼」を主張
- 孟子: 人間に本来備わってる「善」の心を育てれば「礼」が成立すると主張
- 荀子: 「道徳」も大事だが、「礼」を守らなければいけないと主張
- 韓非子: 礼ではなく、拘束力が強い、法律(罰則)によって国を統治することを主張
『韓非子』が生まれたキッカケ

韓非子が生まれた時代は、戦国時代真っ最中でした。
その中でも、出身の韓は強国の秦国と隣り合わせの状態でいつ支配されてもおかしくない状況でした。
そのような背景もあり、韓非子は自らの思想を『韓非子』に記します。
韓非子は、自身で著作する前に当時の韓王(桓恵王)に向かって「法律によって国を支配することが一番大切だ」と説明して、法律を採用しろと主張したと記録に残っています。
しかし、韓王(桓恵王)には聞いてもらえなかったので、自身の思想を文字に書いて残すことにしました。
韓非子と秦王・政との出会い
戦国時代末期、強国として台頭していた秦国は各地へ将軍を派遣して、支配していました。
ある日、いつも通り仕事を行う政(嬴政)の元に、一冊の本が届きます。
その本こそが、韓非子が書いたとされる『韓非子』でありました。
秦王である、政(嬴政)は李斯などの上層部に対して「この本は素晴らしい。この本を著作したものに一刻も早く会いたい」と言ったとされます。
そのため、数日後に韓非子の居場所を探索して、韓王の弟である「韓非」(韓非子)という人物だったことが突き止められます。
その数ヶ月後に、秦に使者として来訪するということでした。
そして、数ヶ月後に秦の都である咸陽に足を踏み入れ、秦王である政と出会います。
李斯の妬まれ謀略により自殺に追い込まれる

秦王の政は、韓非子のことを宰相にしようかと考えていたと言われています。
そのことを知った、李斯は自ら作ってきた地位を奪われてしまうと危機感を感じます。
李斯は、「韓非子は優良な人物ですが、韓王の弟であります。このまま韓に帰してしまったら、必ず秦の災いのもととなるでしょう。」と秦王政に訴えました。
そのため、秦王である嬴政(えいせい)は念のため韓非子を牢獄に入れる判断を下します。
秦王である政は、李斯を信頼していたからこそ牢獄入れることを決めました。
李斯は、殺せる時に殺しておいた方が良いと考えたのか獄中にいる韓非子に毒薬を持っていきます。
そこで、李斯は共に荀子の下で学んだ韓非子に対して「これから酷い拷問を受けるでしょう。もし苦しみから逃れたいのであればこれをお飲みください」と言ったとされます。
それに対して、韓非子は「私も韓の王族として見苦しい死に方はしたくない」と言ったと言われます。
秦王である政は、韓非子を牢獄入れましたが惜しい人物だと思い罪を許そうと考えましたが、「すでに毒薬でなくなっていた」という話です。
韓非子が毒薬で亡くなったことを聞いて、秦王政は「優秀な人物を亡くした」と後悔していたと言われるね!

ぽん太

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史記の中でも韓非子の死はパターンが別れています。
韓非子は法家思想を集大成した

韓非子は「法家思想」を集大成した人物です。
秦の始皇帝は、韓非子の「法家思想」を使って、中華を統一したね!

ぽん太

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これから、秦の始皇帝が『韓非子』の思想を実践したこと、『韓非子』の内容について紹介しますね!
秦の始皇帝が『韓非子』の思想を実践した
秦の始皇帝である政(嬴政)は、韓非子が説いたとされる「人間とは損得によってのみ動く利己的で打算的な生き物だ」という言葉に感銘を受けました。
韓非子が人を治めるには、
- 人間とは損得によってのみ動く利己的で打算的な生き物だ
- 他人に期待しないこと
- 頼れるのは自分だけだということ
- 法律に則って人を厳しく取り締まることが大切
ということを『韓非子』に記しました。
韓非子が亡くなったことを知った始皇帝は、自ら法家思想を実現して国家を運営することで、中国を統一する偉業を成し遂げました。
キングダムの政(嬴政)も「法律で国を治める統治国家を作る」って言ってたよね!

ぽん太
『韓非子』の構成

『韓非子』は、とても長く分厚い書であり全五十五篇からなります。
そのうち、始皇帝が感銘を受けた書物は「孤憤篇」と「五蠹篇」の二篇であると言われます。
一篇〜二十六篇 | 二十六〜五十五篇 |
---|---|
「初見秦篇」(しょけんしん) | 「大体篇」(だいたい) |
「存韓篇」(そんかん) | 「内儲説篇 上 七術」(ないちょぜい しちじゅつ) |
「難言篇」(なんげん) | 「内儲説篇 下 六微」(りくび) |
「愛臣篇」(あいしん) | 「外儲説篇 左上」(がいちょぜい) |
「主道篇」(しゅどう) | 「外儲説篇 左下」 |
「有度篇」(ゆうど) | 「外儲説篇 右上」 |
「二柄篇」(にへい) | 「外儲説篇 右下」 |
「揚権篇」(ようけん) | 「難一篇」(なんいつ) |
「八姦篇」(はちかん) | 「難二篇」(なんじ) |
「十過篇」(じっか) | 「難三篇」(なんさん) |
「孤憤篇」(こふん) | 「難四篇」(なんし) |
「説難篇」(ぜいなん) | 「難勢篇」(なんせい) |
「和氏篇」(かし) | 「問弁篇」(もんべん) |
「姦劫弑臣篇」(かんきょうしいしん) | 「問田篇」(もんでん) |
「亡徴篇」(ぼうちょう) | 「定法篇」(ていほう) |
「三守篇」(さんしゅ) | 「説疑篇」(せつぎ) |
「備内篇」(びない) | 「詭使篇」(きし) |
「南面篇」(なんめん) | 「六反篇」(りくはん) |
「飾邪篇」(しょくじゃ) | 「八説篇」(はっせつ) |
「解老篇」(かいろう) | 「八経篇」(はっけい) |
「喩老篇」(ゆろう) | 「五蠹篇」(ごと) |
「説林篇 上」(ぜいりん) | 「顕学篇」(けんがく) |
「説林篇 下」 | 「忠孝篇」(ちゅうこう) |
「観行篇」(かんこう) | 「人主篇」(じんしゅ) |
「安危篇」(あんき) | 「飭令篇」(ちょくれい) |
「守道篇」(しゅどう) | 「心度篇」(しんど) |
「用人篇」(ようじん) | 「制分篇」(せいぶん) |
「功名篇」(こうめい) |

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「初見秦篇」は、韓非子自身が書いたものではなく、弟子や韓非子の話を聞いた人物が書いた説もあります。
『韓非子』の名言と書き下し文


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『韓非子』の中から名言を書き下し文に現代語訳を付けて紹介します。
<書き下し文> 事の理によるときは、労せずして成る <現代語訳> 理にかなったことをすれば、苦労せずとも目標は達成できる。しかし、理にかなわぬ事をやっていれば、いくら苦労しようとも事は成就しない
<書き下し文> 志の難きは、人に勝つに在らずして自らに勝つに在り <現代語訳> 志を成し遂げることが困難なのは、誰かに勝てないからではない。自分自身に勝てないところに、すべての原因がある
<書き下し文> 遠水は近火を救わず <現代語訳> たとえ将来的に有用であることが立証されている政策でも、常に最優先事項だとは限らない
<書き下し文> 虎の能く狗を服する所以は、爪牙なり <現代語訳> 犬が虎を恐れ逆らわないのは、虎が強力な爪と牙を備えているからだ 部下と接する時にしても、いつも優しい顔ばかりしていればいいというわけではない
<書き下し文> 法は貴におもねらず、縄は曲にたわまず <現代語訳> 法の適用は、身分の高い人だからといっておもねって曲げてはならない。大工は木が曲がっていても墨縄を曲げたりはしない
『韓非子』から生まれた成語やことわざ

『韓非子』は、法律で人を治める方法が具体的に書かれてあったので統治国家を目指していた始皇帝(嬴政)が気に入りました。
法家は漢代以降,学派としては消滅しましたがその後の中国法の性格を形づくるものとなりました。

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ここでは、『韓非子』から生まれた成語やことわざをいくつか紹介していきます。
「矛盾」
今でもよく使われる「矛盾」という言葉は、『韓非子』で初めて使われました。
『韓非子』の一篇「難」に基づく故事成語です。
<白文>
楚人有鬻楯與矛者 譽之曰 吾楯之堅 莫能陷也 又譽其矛曰 吾矛之利 於物無不陷也 或曰 以子之矛 陷子之楯 何如 其人弗能應也— 『韓非子』難編(一)
<現代語訳>
楚人に盾と矛とを鬻(ひさ)ぐ者有り。之(これ)を誉(ほ)めて曰(いは)く「吾が盾の堅きこと、能(よ)く陥(とほ)すものなきなり。」と。また、その矛を誉めて曰く「わが矛の利(と)きこと、物において陥さざるなきなり。」と。あるひと曰く「子の矛を以て、子の盾を陥さばいかん。」と。その人応ふること能(あた)はざるなり。
引用: 矛盾(Wikipedia)
有名な矛盾の話は『韓非子』の一篇「難」に由来されているものです。
『韓非子』では、儒家は伝説の時代の聖王の「堯」と「舜」の政治を最高で理想だとすれば、「堯」が「悪」を正す必要はないと説きます。
一方が正しいと主張すると、他方は正しく無くなってしまうと主張しました。
かの有名な矛と盾の話は、『韓非子』の「矛盾」という話が由来となっています。
「逆鱗」
人の「逆鱗に触れる」などといいますが、これも『韓非子』が用いた広まった表現です。
「逆鱗」は伝説上の神獣である「竜(龍)」の81枚のうち、顎に逆さに生えてる鱗のことをいいます。
<白文>
夫龍之爲蟲也 柔可狎而騎也 然其喉下有逆鱗徑尺 若人有嬰之者 則必殺人 人主亦有 逆鱗 說者能無嬰人主之逆鱗 則幾矣
<現代語訳>
竜という生きものは、穏やかな時には、馴染めば(背中に)またがる事もできるものだ。しかし、竜の喉元には鱗が逆さに生えた部分があり、これに触れる者がいると、(竜は怒り)その者をすぐに間違いなく殺してしまう。君主にも同じように逆鱗がある。(臣下の)発言者は、(具申の際に)自ら君主の逆鱗に触れるようなことがなければ、(上手くいく結果が)近いものである。
引用: 逆鱗(Wikipedia)
「竜(龍)」は人間に危害を加えることはないが、竜のあごしたの「逆鱗」に触れると即座に殺されました。
そのため、「逆鱗」には触れてならないと表現する言葉となり、広く目上の人物の激怒を買う行為を指すようになりました。

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「癪に障る」という行為は、友人や後輩、部下などを怒らせたときに使われる言葉です。
「逆鱗に触れる」と「癪に障る」の違いをこの際、押さえておこうね!

ぽん太
「箕子の憂い」
箕子の憂い(きしのうれい)は、あまり聴き慣れない言葉かもしれませんが『韓非子』の出典とされます。
「小さな事柄から大きな流れを察知すること、またはそれができる人物」といった意味であり、「小を見て大を知ることを明という」という意味で用いられます。
「虎に翼」
この言葉の意味は、元々強かったものがさらに力を手にいてることを意味します。
『韓非子』の難勢篇(なんせい)に登場する言葉であり、有名なことわざです。
この言葉が意味することは、そもそも権威という物は国を治めるのには役立つが、国を乱すのにも便利な物であるといった意味です。
そのため、「愚か者に権威を持たせるのは天下を乱す原因となる」と主張しました。
「虎に翼」は「鬼に金棒」といった言葉と同義で使われるね!

ぽん太
『韓非子』が出典の四字熟語


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これから、『韓非子』が出典の四字熟語を一部紹介していきます。
「信賞必罰」
「信賞必罰」とは、「功績ある者には必ず賞を与え、罪ある者には必ず罰を与える」という意味です。
「功績のある者にはしっかりと褒美を与え、悪いことをした人にはきちんと罰をあたえるという法が必要だ」という『韓非子』の内容が由来となっています。
参考までに七つの心得を紹介します。
- 衆端(シュウタン)を参観すること
- 部下の言動をよく聞きよく見ること
- 必罰して威を明らかにすること
- 刑罰を必ず下し威厳を保つこと
- 信賞して能を尽くさしめること
- 賞与を厚くし、確実にすること
- 一聴して下を責めること
- 部下に言行一致を求めること
- 疑詔(ギショウ)し詭使(キシ)すること
- いつわりの招集、や命令を出して怯(ひる)ませる
- 知を挟んで問うこと
- 知っていることを隠して問いかけること
- 言を倒(さかさま)にし事を反(かへ)すこと
- わざと反対の事を言って、相手の反応を見ること
「一顰一笑」
「一顰一笑」(いちびん いっしょう)は、「顔をしかめたり笑ったりすることと」いう意味です。
『韓非子』の内儲説上の内容が由来となっています。
現代ではささやかな表情の変化や感情の変化を指す意味で使われます。
以下は、元になった白文と現代語訳です。
<白文> 吾聞、明主之愛一嚬一笑。 嚬有爲嚬、而笑有爲笑。 <現代語訳> 賢明な王は、部下の前で軽々しく感情の変化を顔には出さないものだ。 顔をしかめるときにはしかめるだけの、笑うときには笑うだけの、そうする理由があるのだ。
類義語である「一喜一憂」は大きな変化感情を表す言葉で使われるね!

ぽん太

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「一顰一笑」は、小さな表情の変化を表します。
「守株待兎」
「守株待兎」(しゅしゅたいと)は、古いしきたりを守ことにしばれて融通が聞かないことを意味します。
また、思いがけない幸運が起こることをただ待つだけの愚かさという意味でも用いられます。
『韓非子』の五蠹(ごと)の内容が由来となっている言葉です。
以下は、元になった白文と現代語訳です。
<白文> 田中有株。兔走触株、折頸而死。 因釈其耒而守株、冀復得兔。 兔不可復得、而身為宋国笑。 <現代語訳> 田んぼを耕している宗の国の者がいました。 ある日、ウサギは畑の中にあった切り株に衝突して、死んでしまいました。 これを見た人は、切り株を切ったすすきを捨てて農作業を辞めることにします。 毎日のように、切り株をチェックして、ウサギが手に入ることをただ待つようになりました。
「唯唯諾諾」
「唯唯諾諾」(いいだくだく)とは、何事でもはいはいと従うさま。人のいいなりになることを意味します。
『韓非子』の八姦(はっかん)の一つである在旁(ざいぼう)の説明で「唯唯諾諾」が用いられます。
以下は、元になった白文と現代語訳です。
<白文> 曰く、優笑、侏儒、左右近習、此れ人主未だ命ぜずして唯唯、未だ使はずして諾諾。 <現代語訳> 君主がまだ命令する前から、はいはい、と言いました。 何かをさせる前から、わかりましたわかりました、と言います。
「韓非子」の論文集

ここでは「韓非子」についての論文を紹介します。
ぜひ参考にしてみてくださいね!
まとめ|韓非子は法家思想を完成させた思想家

さいごに韓非子についてまとめました。
この記事のまとめ
- 韓非子は韓の王族の子として生まれた
- 生まれつき重度の吃音症であった
- 李斯と共に、「性悪説」を説く荀子の門下
- 秦王・政が韓非子の思想を実践した
- 李斯の妬まれ謀略により自殺
- 韓非子は法家思想を集大成した
韓非子が説いた法家思想は、現代の『法律』の基礎となっているね!

ぽん太

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最後まで読んでいただきありがとうございます。