マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121年〜180年)とは、当時の世界に多大な影響力を及ぼした哲学者の著者でもあります。
そんな中で、東ヨーロッパにおける戦いの合間に記した『自省録』は、現在でもストア派の哲学作品として非常によく知られています。
即位した頃の治世は、平和でしたが後に飢饉や天然痘、戦争が勃発し苦しい時代を迎えました。
母国であるラテン語ではなく、ギリシア語で書いたことからもギリシャ文化に憧れを抱いていました。
また、彼はストア派を信仰していたこともあり宮殿では質素な生活を送っていました。
そのため、庶民から人気が高かったと言われています。
- マルクス・アウレリウスの人物像
- キャリアを築き皇帝候補に名乗り出た皇帝即位まで
- 飢饉や戦争に苦しめられたマルクス・アウレリウスの治世について
- マルクス・アウレリウスの晩年
について解説していきます。
好きな箇所から読んでみてください。
アイキャッチ画像出典: Ancient World History

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そんな、マルクス・アウレリウスとはどんな人物なのか?生い立ちから、治世、晩年までご紹介していきますね。
タップできる目次
マルクス・アウレリウスは、どんな人物?
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- 何代目: 第16代ローマ皇帝
- フルネーム: マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス
- 生没: 121年〜180年 (享年58歳)
- 在位: 161年〜180年 (在位期間19年)

マルクス・アウレリウスは五賢帝の最後の皇帝として知られています。
性格は寡黙で、静かに物事を考えることを好む哲学者でした。
そのため、哲学研究の時間を持ちたかったようだが、治世の間に大きな戦争や川の氾濫、疫病蔓延など様々な苦難が起こったため、研究に時間を取ることはできなかったといいます。
自ら『自省録』という著書もあり、「哲人皇帝」とも呼ばれます。
幼い頃、粗末なギリシア風のマントを身につけ、地面で寝るようになったが母親に「それだけはやめてほしい」と言われたエピソードも知られています。
マルクス・アウレリウスの年表

西暦(年齢)
- 121年(0歳)
- 父マルクス・アウレリウス・ウェルス(年齢不詳)、母ドミティア・ルキッラ(年齢不詳)の子としてローマで誕生
- 父は法務官(プラエトル)経験者
- 当時の皇帝は第14代ハドリアヌス(45歳)
- 124年(3歳)
- 父マルクス・アウレリウス・ウェルス死去
- 127年(6歳)
- ハドリアヌス帝(51歳)により、騎士階級(エクイテス)に入ることを許される
- 136年(15歳)
- ハドリアヌス帝(60歳)の命令で、ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス(35歳)の娘ファビアと婚約させられる
- ハドリアヌス帝がルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスと養子縁組、後継者とする
- 138年(16歳)
- ハドリアヌス帝(61歳)の後継者ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス(36歳)が結核により死去
- 叔父のアントニヌス・ピウス(51歳)がハドリアヌス帝と養子縁組、後継者に指名される
- アントニヌス・ピウス死後に、マルクス・アウレリウスは、ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの息子ルキウス・ウェルス(7歳)とともに後継者となることも決められる
- 139年(17歳)
- 財務官(クアエストル)に就任
- 副帝を意味する「カエサル」の称号を授かる。
- 140年(18歳)
- 執政官(コンスル)に就任
- 145年(23歳)
- 二度目の執政官に就任
- 145年(24歳)
- アントニヌス・ピウス帝(59歳)の娘ファウスティナ(15歳)と結婚
- 149年(27歳)
- 妻のファウスティナ(19歳)が男女の双子を出産。兄はゲメルス、妹はルキッラと名付けられる
- 160年(38歳)
- 三度目の執政官に就任
- 161年(39歳)
- アントニヌス・ピウス帝(74歳)死去、義弟のルキウス・ウェルス(30歳)とともに共同統治帝として即位
- パルティア戦争勃発。パルティア王ヴォロガセス4世(年齢不詳)がローマ帝国保護下のアルメニア王国に侵攻
- 162年(41歳)
- ティベル川が氾濫、農作物が甚大な被害を受け飢饉発生
- 共同統治帝のルキウス・ウェルス(31歳)がパルティア戦線に出征
- 本人はほとんど指揮を取らず、部下たちが戦争を進める
- 163年(42歳)
- ローマ軍、アルメニア王国の首都アルタクサタを占拠
- 165年(44歳)
- 将軍カッシウス(35歳)がパルティアの首都クテシフォンを占拠
- パルティア戦争に勝利
- 166年(45歳)
- パルティア戦争の凱旋式開催
- トラヤヌス帝以来50年ぶりの凱旋式
- 六男コンモドゥス(5歳)に「カエサル」の称号を授ける
- 他の息子たちは幼児期に死去
- 167年(46歳)
- 帝国内に天然痘が蔓延、壊滅的な人的被害をもたらす
- マルコマンニ戦争の一環でゲルマン人が帝国内へ侵攻するが撃退
- 168年(47歳)
- マルコマンニ戦争の一環で帝国北方にゲルマン人侵攻、ルキウス・ウェルス帝(38歳)とともに鎮圧に向かう
- 169年(47歳)
- ローマへ帰還
- 帰路の途中ルキウス・ウェルス帝(38歳)が脳溢血で死去
- マルクス・アウレリウスによる暗殺説もあり
- マルコマンニ戦争に再度出征
- 172年(51歳)
- 陣中にて著書『自省録』の執筆開始
- 175年(54歳)
- カッシウスの反乱
- カッシウスにはマルクス帝に逆らう意図は無かったと考えられる
- カッシウスが兵によって暗殺されて乱は終結
- 妻ファウスティナ(45歳)が死去
- 176年(55歳)
- マルコマンニ戦争の凱旋式開催
- 177年(56歳)
- 帝国北部でマルコマンニ戦争再燃
- 息子のコンモドゥス(16歳)を共同統治帝とする。
- 180年(58歳)
- ウィンドボナ(現在のウィーン)で病死
- ネルウァ帝から続いた、世襲でない帝位継承の終焉
マルクス・アウレリウスが皇帝として即位するまで
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五賢帝、最後の皇帝であるマルクス・アウレリウスはどんな皇帝だろう?

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これから、マルクス・アウレリウスの生い立ちから皇帝即位まで解説していきますね。
マルクス・アウレリウスの幼少期
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マルクス・アウレリウスは、ローマ帝国の首都であるローマで生誕します。
父親が高位な役職である法務官(プラエトル)であったため、裕福な家庭だったことが推測されます。
マルクス・アウレリウスの幼少期は、ハドリアヌス帝に寵愛されたエピソードが有名です。

◽︎ ハドリアヌス帝がマルクス・アウレリウスを寵愛したエピソード
- 127年(6歳): マルクス・アウレリウスは特別な許可で騎士階級(エクイテス)に入ることを許可されます。
- 少年時代に騎士階級へ叙任されたことは、過去に例がないことでした。
- 128年(7歳): マルクス・アウレリウスは聖職(僧職などの神聖な役目)を目指す学校をハドリアヌスの特別許可で入学します。
→ このエピソードからハドリアヌス帝は幼少期のマルクス・アウレリウスを寵愛していたと言われます。
幼少期のマルクス・アウレリウスは、ハドリアヌスから寵愛を受けていたんだね!

ぽん太

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ハドリアヌスについては、下記の記事で詳しく解説しています。
マルクス・アウレリウスの人生に大きな影響を受けた教師
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古代のローマ帝国では、寿命も短かったため成人男性の年齢が15歳と決められていました。
そのため、15歳(成人)を迎えたマルクス・アウレリウスは師となる教師から教育を受け始めます。
当時のローマには、ギリシャ人とラテン人が教師の多数をしめていました。
◽︎ ギリシャ人とラテン人の教師が多かった理由
- 古代ローマ人は建築などの分野では花開きましたが、文化や教育の面では古代ギリシャの方が勝っていたため
- ラテン人は、ローマ帝国の民族だったため
マルクス・アウレリウスは、家庭教師の中でもマルクス・コルネリウス・フロントという人物と親しかったとされます。
マルクス・コルネリウスはアフリカ出身の元老院議員であり、古代においては随一の雄弁家として知られました。
また、マルクス・アウレリウスの思想に大きな影響を与えたのが、アポロニウスという人物です。
彼は、マルクス・アウレリウスが生涯尊敬続けることになった人物です。
アポロニウスは、マルクス・アウレリウスに「理性を失ってはいけない。己の判断は理性に委ねるべきだ」と教えを説きました。
マルクス・アウレリウスの銅像があごひげを生やしていることからギリシア文化に大きな影響を与えられたことがわかるね!

ぽん太

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初めてあごひげを生やし始めた皇帝は、第5代皇帝であるネロ帝です。
順調にキャリアを築き、皇帝候補に選ばれる
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ハドリアヌスは死後の前に、後継者をアントニヌス・ピウスにする条件として、
- 帝位継承を「ルキウス・アウレリウスの子ルキウス・ウェルスと大ファウスティナのおいであるカティリウス(アウレリウス)を養子とすること」
- ルキウス・ウェルスに大ファウスティナの子である小ファウスティナを婚約させること
を条件として崩御しました。
ハドリアヌスは、最後までマルクス・アウレリウスのことを想っていたんだね!

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アントニヌス・ピウスが皇帝として即位してからマルクス・アウレリウスは順調にキャリアを築いていきます。
◽︎ マルクス・アウレリウスのキャリア軌跡
- 139年(17歳): 財務官(クアエストル)に就任
- 140年(18歳): ローマ帝国のエクイテスを指揮する長に就任
- 140年(18歳): 英雄カエサルの称号を受け取る
- その後、名前をマルクス・アエリウス・アウレリウス・ウェルス・カエサルに改名
- 145年(24歳): 皇帝アントニヌス・ピウスの娘ファウスティナと結婚
- 156年(34歳): 老齢と病気のアントニヌス・ピウスに変わって国の帝政を任せられる
- マルクス・アウレリウスは性格が努力家なこともあり、スムーズに皇帝として務めを果たしたと言われています。
マルクス・アウレリウスが皇帝として即位
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マルクス・アウレリウスが38歳となる頃、三度目の執政官に就任しました。
その翌年である161年、アントニヌス・ピウスが死去(74歳)。
その後、名をマルクス・アンニウス・ウェルスからマルクス・アウレリウス・アントニヌスに名を変えた。
義理の弟ルキウス・ウェルス(30歳)と共に共同統治帝として即位。

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先帝であるアントニヌス・ピウスの葬儀が終わった後、マルクス・アウレリウス帝とルキウス帝は先帝を神格化しようと提案し、元老院は直ちに承認しました。
アントニヌス・ピウスは、妻である子ファウスティナと一緒に祀られ、ハドリアヌス廟に葬られました。
マルクス・アウレリウスの治世に起きた出来事
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マルクス・アウレリウスは、初期の帝政に沿って、貧困階級の子供に対して慈善政策を進めました。
また、議会において言論の自由が保証され、皇帝に対して発言を行っても罰せられることはなかったといいます。
ストア派であったため、宮殿での生活や食べ物も最低限に謹みました。
→ そのため、市民や元老院から好意的に受け止められ、ストア派を信仰する者も増えたといいます。
ただ、マルクス・アウレリウスの治世は苦難の連続でした。
天然痘や飢饉、戦争に苦しめられた皇帝だよね。

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これから、マルクス・アウレリウスの出来事についてご紹介していきます。
パルティア戦争が勃発
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先帝のアントニヌス・ピウスが脅威となるだろうと言い残していた、パルティアの王ヴォロガセス4世によってパルティア戦争(第六次パルティア戦争)が勃発。
この戦争は、マルクス・アウレリウスが即位した年と同年(161年)におきた戦争です。
東方では、属州を支配していたローマ軍がパルティアの兵士と戦いましたが、大敗してしまいます。
また、北では北方民族が度々ローマの属州に攻撃をしたり、貿易の脅威となる存在になっていました。
マルクス・アウレリウスは、トラヤヌス帝のような武力は備えてなかったと言われます。
一刻一刻と過ぎ去る事態に対応ができなかったため多くの犠牲を伴うことになりました。
義弟のルキウス・ウェルスがパルティア戦争に出征
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アントニヌス・ピウスが死去してから、事実上の皇帝はマルクス・アウレリウスでした。
そのため、共同統治を行っているルキウス・ウェルスはあまり光を浴びていない存在でした。
→ 当時のローマ帝国では、皇帝として見られていなかったと言われています。
パルティア戦争が長期化する中で、元老院や国民からルキウス・ウェルスに批判の刃が飛びました。
そのため、ルキウス・ウェルスを戦争に派遣することで、市民や元老院の機嫌をとること、軍の士気を上げることを狙いました。
古代ローマ帝国のルキウス・ウェルスに関する伝記には、ルキウス帝を戦争に活かせる理由が記録されています。
そこまで期待されていなかったルキウス・ウェルスは戦場にて、優れた将軍達に指示して敵対する軍を撃破したことで、良い評価を得ています。
その戦いで、パルティアの首都であるクテシフォン(現イラク)とセレウキアを一時占領しました。
遠征を終えたルキウス・ウェルスは、ローマ凱旋門で顕彰されました。
緊迫した現場の中でウェルスは、俳優や音楽家に囲まれ娯楽に興じていました。この結果、軍の指揮を上げたいたと言われるよ!

ぽん太
ティベル川が氾濫、大飢饉が発生
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パルティア戦争が勃発した翌年(162年)の春に、ティべリス川(現テヴェレ川)の増水によって、ローマのラティウム地方に被害を及ぼしました。
その結果、農作物の損失から飢饉が発生したと言われます。
→ 大飢饉が発生したことで、マルクス・アウレリウスの穏やかな統治が終わりを迎えるキッカケとなりました。
パルティア戦争の凱旋後、天然痘の大流行
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パルティア戦争が終結した翌年(167年)に、ローマ帝国内で天然痘(アントニヌスの疫病)が蔓延し、壊滅的な被害をもたらします。
一日に2000人以上の人間が途絶え、総死亡者数は帝国全土で1000万人を超えたと言われています。
当時のローマ帝国での衛星状態は、排泄物はそのままに捨てられ、公衆浴場(テルマエ)は殺菌されていなかったと言われています。
天然痘が蔓延したことは、マルクス・アウレリウスの専属医師であるガレノスが詳細に記録していました。

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ローマ皇帝第3代ローマ皇帝として知られるカリグラも病に苦しみました。
マルコマンニ戦争が勃発
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マルコマンニ戦争は、162年から始まったローマ帝国の北方国境で発生した戦争です(*戦争の主導者であるマルコマンニ人の名前からこのように呼ばれました)。
162年に戦争の契機となったカッティ族による攻撃から、4年後におきたドナウ川での攻撃により深刻な事態となりました。
ローマ帝国では天然痘が蔓延しており、軍の指揮も低かったためマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの双方が軍を指揮して戦いました。
戦争は長期間に渡り繰り広げられました。
戦争の最中にルキウス・ウェルスが食中毒で亡くなりました。
将軍カッシウスの反乱
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マルコマンニ戦争が泥沼化して、長引く戦争に対して不満を抱いたカッシウスがハンらいを起こしました。
当時のカッシウスは、パルティア戦争で、クテシフォンとセレウキアを攻め落としたことで東方属州の大部分を支配していました。
ローマ帝国から天然痘でマルクス・アウレリウスが病没したとの噂を聞き、不満が積もっていたカッシウスはローマへの挙兵を決断しました。
しかし、これはのちの誤った情報であることが判明し、カッシウスはアウレリウス側の内通者によって暗殺されます。
飢饉が起こり、天然痘が蔓延し、戦争が勃発し。この時代の治世は大変だったことがわかるね。

ぽん太
マルクス・アウレリウスの晩年とその後
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マルクス・アウレリウスは、どんな晩年を送ったんだろう?

ぽん太

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これから、マルクス・アウレリウスの晩年とその後について解説していきますね。
マルクス・アウレリウスの病没
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177年、マルクス・アウレリウスが56歳を迎える年に手を焼いたマルコマンニ人が攻撃を仕掛けてきて、マルコマンニ戦争が再び起こります。
天然痘や飢餓が帝国内で流行した影響から、マルクス・アウレリウスも健康面に不安がありました。
もしも、自分の身に何かあった場合、皇帝が混乱することを防ぐため実の息子であるコモンドゥスを次期皇帝に指名しました。
→ この出来事は、ネルウァ帝から始まった世襲制度ではない帝位継承が終わったことを意味しています。
マルコマンニ人やそのほかを含む北方民族を撃退するため、マルクス・アウレリウスはコモンドゥスと共にドナウ川国境へと遠征に向かいます。
その遠征先である、ウィンドボナ(現ウィーン)で病没しました。
マルクス・アウレリウスは、天然痘で病没したとされます。
そのこともあり、歴史上に起きた伝染病を話す時にローマ帝国でおきた天然痘を「アントニヌスの天然痘」と呼びます。
ウィーンでおきた知らせを聞いた、元老院は直ちにマルクス・アントニウスの遺骸をローマまで運ばせて、ハドリアヌス廟で火葬されました。
元老院は、マルクス・アウレリウスが知的な君主でもあり、北方民族や東方の諸国に対しても抵抗し続けた軍才を称えて英雄的な評価を下しました。
マルクス・アウレリウスの著作『自省録』とは?
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マルクス・アウレリウスが『自省録』を書き始めたのは、ゲルマン系のクアディ族との戦いの間であると考えられています。
全部で12巻から成る『自省録』は、自伝でもあり、ストア派の思想書として最も良く知られている書物です。
ストア派は死後の世界を信じておらず、すべての人間は忘れられる運命にあり、存在における苦難には意味がないとします。
彼は、
「生来、万物は死ぬものである」
と著書に記しています。
それでも、マルクス・アウレリウスは人間の自然の法則に従って、徳の高い生活を送るべきだと考えました。
著者には、
「何をも期待せず、何をも恐れず、自然に従った自らの行動に満足し、自らの発する言葉のありのままの真理に満足すれば、幸福で生きられる」
と記しました。
ギリシアの3大悲劇詩人の一人であるエウリピデスの引用が多いことも特徴です。
「マルクス・アウレリウス」の論文集

ここでは「マルクス・アウレリウス」についての論文を紹介します。
ぜひ参考にしてみてくださいね!
まとめ|マルクス・アウレリウスは五賢帝最後の皇帝

さいごにマルクス・アウレリウスについてまとめました。
- 戦いより勉学を好んだ哲学者であった
- 幼少期は、ハドリアヌスに寵愛された
- ギリシャ文化の影響を大きく受けた
- ストア派を支持しており、質素な生活を好んだ
- 貧困階級の子供に対して、慈善政策を進めた
- 治世の後半には、飢饉が発生し天然痘が蔓延した
- 戦争の出征中に病没した
- 『自省録』を記した
マルクス・アウレリウスは、五賢帝最後の皇帝であり、対外政策や内政に真摯に向き合ったことから元老院などからは英雄と称されました。
治世は苦難の連続でありながら、政策を施し続けたマルクス・アウレリウスは立派な皇帝だったね!

ぽん太

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最後まで読んでいただきありがとうございます。