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暴君と言われた皇帝ネロとは?生い立ちから、研究の論文をご紹介!

8 min
暴君と言われた皇帝ネロとは?生い立ちから、研究の論文をご紹介!

ネロ帝(37年〜68年とは第5代皇帝であり「暴君」の異名をもつ皇帝です。初期の統治では名君として誉れが高かかったのですが、徐々に暴君としての片鱗を表します。

初期の統治では名君として誉れが高かかったのですが、徐々に暴君としての片鱗を表します。

自らを芸術家と名乗る一面もあり、ギリシア文化に深く憧れを抱いていました。

また、ネロ帝はキリスト教徒を史上初めて迫害したことで「反キリスト」の代名詞となっています。

この記事では、

  • ネロ帝の過酷な幼少期
  • ネロ亭の治世
  • 暴君と呼ばれるようになったキッカケ
  • ネロ帝は、芸術を愛していたこと
  • 波乱の晩年

について筆者の考えと共に解説していきます。

好きな箇所から読んでみてください。

「暴君」と呼ばれているネロ帝の生涯や治世はどんな出来事が起きたのかな?

ぽん太

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maru

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これから、「暴君」と言われた理由やネロ帝の由来について解説していきますね。

ネロ帝とは、どんな人?

ネロ帝とは、どんな人?
  • 何代目: 第5代ローマ皇帝
  • フルネーム: ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
  • 生没: 37年〜68年 (享年30歳)
  • 在位: 54年〜68年 (22年) 

史上初めてキリスト教徒を迫害したことから、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」の数字666はネロを表すものと言われています。

maru

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これはネロの名前をヘブライ文字に置き換え、それぞれの数字が持つ独自数値を合計したものです。

新約聖書の最後に記された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。出典: ヨハネの黙示録

ギリシア人の習慣を真似てローマ皇帝として初めて、あごひげを生やしたことも有名です。

ネロ帝の年表

ネロ帝の年表

西暦(年齢)

  • 37年(0歳)
    • 父グナエウス・ドミティウス・アエノバルブス(54歳、執政官経験者)と母アグリッピーナ(22歳、初代皇帝アウグストゥスのひ孫、第3代皇帝カリグラの妹)の長男として誕生
  • 40年(3歳)
    • 父ドミティウス死去(享年57歳)
    • 母アグリッピーナ(25歳)が、兄で第3代皇帝のカリグラ(28歳)の暗殺を企てた容疑で流刑となる
  • 41年(4歳)
    • 第3代ローマ帝国皇帝カリグラ帝暗殺(享年28歳)、第4代皇帝にクラウディウス帝(50歳)即位
    • 母アグリッピーナ(26歳)が流刑地より帰還し、裕福な元老院議員サルスティウスと再婚
    • 数年後にサルスティウスは死去し、莫大な遺産が残される
  • 49年(11歳)
    • 母アグリッピーナ(34歳)が叔父で第4代皇帝のクラウディウス(59)と再々婚
  • 50年(12歳)
    • クラウディウス帝(60歳)の養子となる
  • 53年(15歳)
    • クラウディウス帝(63歳)の長女オクタウィア(12歳)と結婚
  • 54年(16歳)
    • クラウディウス帝が毒キノコを食べて死去(享年63歳)
    • ネロ帝が後を継いで第5代皇帝に即位
  • 55年(17歳)
    • クラウディウス帝の実子ブリタニクス(16歳)を急死
    • ネロによる毒殺説あり
    • 最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)に就任
  • 58年(20歳)
    • マルクス・オトをルシタニア(ポルトガル)総督に任命し、ローマから遠ざける
  • 59年(21歳)
    • 母アグリッピーナを殺害(享年44歳)
    • 円形闘技場での剣闘士試合を10年間禁止する命令を出す
  • 60年(22歳)
    • ネロ祭(5年に一度開催)を創設。音楽と体育を競う
  • 62年(24歳)
    • 親衛隊長でネロの後見人ブッルス(享年61歳)が死去
    • ネロによる毒殺説あり
    • 少年時代の家庭教師で、側近のセネカ(63歳)が失脚
    • オクタウィア(22歳)と離婚、ポッパエア・サビナ(32歳)と結婚
    • 元妻のオクタウィアを不倫の罪で自殺させる
  • 64年(26歳)
    • キリスト教徒を犯人に仕立て、多くのキリスト教徒を迫害
    • ローマ復興の際にドムス・アウレア(黄金宮殿)建設
    • ナポリの劇場で詩人としてデビュー
  • 65年(27歳)
    • ピソの陰謀に加担した罪を理由にセネカを殺害(享年66歳)
    • 第2回ネロ祭開催
  • 66年(28歳)
    • ユダヤ属州で大規模な反乱発生
    • ギリシアに音楽修行に出かける(~68年)
    • 再び陰謀発覚。元老院との対立が決定的となる
  • 67年(29歳)
    • ギリシアのコリントス地峡で運河掘削工事を開始させる
    • ネロの死後完成し、現在でも使われている
  • 68年(29歳)
    • ガリアの属州総督ウィンデクス(年齢不詳)が反乱
    • ヒスパニア総督ガルバ(64歳)が皇帝即位を宣言
    • 元老院がネロを廃位し、ガルバを皇帝と認定
    • 同行した奴隷に自らを殺させたとも言われる

ネロ帝の生誕から皇帝即位まで

ネロ帝の生誕から皇帝即位まで

ネロ帝は、皇帝として即位するまでどのような生い立ちを過ごしたのかな?

ぽん太

ぽん太

maru

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これから、ネロ帝の生い立ちから皇帝即位までの出来事をご紹介しますね。

ネロ帝の幼少期

ネロ帝の幼少期

執政官(コンスル)経験者である父ドミナティウスと初代ローマ皇帝アウグストゥスのひである母アグリッピーナの長男として誕生します。

父は、マルクス・アントニヌスの孫であり、母はカエサルの姪の子孫にあたるので、家柄に恵まれた人物でした。

生誕時のネロ帝の名前は、ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスであります。

都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。執政官のほかに統領を用いることもあります。

40年、ネロが3歳の頃、父であるドミティウスが死去(享年57歳)。

母アグリッピーナ(25歳)が、兄である第3代皇帝のカリグラ(28歳)の暗殺を企てた容疑で流刑。

翌年、第3代ローマ帝国皇帝カリグラ帝暗殺(享年28歳)、第4代皇帝にクラウディウス帝(50歳)が即位。

母であるアグリッピーナが流刑地より帰還して、元老院議員サルスティウスと再婚。

49年、母アグリッピーナが叔父で第4代皇帝のクラウディウスと再々婚。

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当時、叔父と結婚すること法律に背く行為でしたが、息子であるネロを帝位につけさせるため婚姻を無理やり通しました。

52年にクラウディウス帝の養子となり、次期皇帝としての地位を確立しました。

(筆者の考え)ネロ帝は、家柄に生まれた家系に生まれましたが、幼少期から多くの死を目の当たりしているので、同世代よりも「死や生」に対する執着が強かったと思われます。

ネロ帝が皇帝として即位

ネロ帝が皇帝として即位

ネロが皇帝として即位するきっかけとなったのが、54年にクラディウスが死去したことでした。

同年、ネロ帝が後を継いで第5代皇帝に即位。

まだ、16歳であったことから家庭教師である哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスが政治のサポートを行いました。

セネカは、ローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。ストア派哲学者として多くの悲劇作品を著作し、後にシェイクスピアなどに大きな影響を与えました。

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同じストア派の哲学者として、五賢帝の皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスが挙げられます。

ネロ帝の治世に起きた出来事

ネロ帝の治世に起きた出来事

暴君と呼ばれたネロ帝は、どういった治世を行ったのかな?

ぽん太

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maru

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これから、ネロ帝の治世について解説していきます。

皇帝ネロが暴君と言われるキッカケとなった振る舞い

皇帝ネロが暴君と言われるキッカケとなった振る舞い

ネロ帝の統治初期は、政治の補佐を受けることがあり、名君として名を馳せる勢いでした。

しかし、数年後にネロとその周囲の間に緊張関係が見られるようになります。

ネロ帝と母アグリッピナの関係が悪化すると、母アグリッピナはかつて自らが退けたブリタンニクスに注目するようになりました。

ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスと3番目の妻メッサリナの息子。そのため、地位が高くネロ帝に代わりうる存在であった。

55年、成人を迎えたブリタンニクス(16歳)が急死。

タキトゥスの『年代記』によればネロが毒殺したと言われています。

帝政期ローマの政治家、歴史家。伝説などを排して資料批判を行いながら正確な記述を目指しました。代表作は『ゲルマニア』と『年代記』(アウグストゥスからネロまでの歴史)

ブリタンニクスが死去したことを知り、ネロとアグリッピナは一触即発状態となりました。

59年、ネロ帝(22歳)に関係が悪かった母であるアグリッピナ(44歳)を殺害。

その三年後には、ネロ帝の後見人であるブッルス(61歳)が死去。

しまいには、少年時代の家庭教師でもあり、政治のサポートを補佐していたセネカ(63歳)も失脚させます。

65年には、ピソの陰謀に加担した罪を理由にセネカを殺害します。(享年66歳)

宴会で悪口を言った人物が死刑され、その後も多くの元老院が処刑されたことが有名なエピソードとして残っているよ!

ぽん太

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ピソの陰謀を阻止したのは、五賢帝のネルウァでした。

歴史上、初めてキリスト教徒を迫害

歴史上、初めてキリスト教徒を迫害

ネロ帝は、人類史上初めてキリスト教徒を迫害しました。

そのため、キリスト教文化圏を中心にネロに対する評価は低いです。

64年に発生した首都ローマで大火災がおきました。

史上最大規模の火災であったことから、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂が流れました。

その噂をキリスト教徒になすりつけ、放火の罪で処刑しました。

初代ローマ教皇である、ペトロの殉教

初代ローマ教皇である、ペトロの殉教

ネロ帝は、初代ローマ教皇であるペトロを刑死しました。

『マタイによる福音書』によればペトロは、弟子であるアンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ最初の弟子となりました。

新約聖書におさめられた四つの福音書の一つ。

ペドロは12使徒(重要な役割を果たしたイエスの一番弟子)のリーダー的存在であったため、1626年にペトロの殉教地に「サン・ピエトロ大聖堂」が建設されました。

「サン・ピエトロ大聖堂」は後に、ローマ・カトリック教会の総本山となりました。

初代ローマ皇帝であるパウロを刑死させたことは、反キリストの代名詞となりました。

火災で失った、ローマ市の再建

火災で失った、ローマ市の再建

64年に、ローマで大火災がおきて、ローマ市は14区のうち3分の2を占める10区が焼失しました。

これまでも、首都ローマは建造物の多くが密集していたことなどから、何度か大火災が起きていましたが、64年おきた災害が最大規模だったと言われています。

出火当時にローマを離れていたネロ帝は、すぐにローマに帰り鎮火や被災者救護にあたりました。

ローマのほとんどが焼き尽くされたため、ネロ帝は王朝の財をほとんど投入したと言われます。

その結果、火災から無事復興しました。

当時のローマ市内は木造建築メインの建造物が多かったが、焼失してからコンクリートの建造物が作られはじめました。

ネロ帝が『大火を宮殿から眺めつつ、バイオリンを片手に古事になぞられ「トロイアの陥落」を吟じていた』などの噂も流行ったね。

ぽん太

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実際にすぐにローマに帰り鎮火にあった記録があることから、元老院などから悪意ある噂が流れていたと言われます。

パルティアやオリエント諸国との外交政策

パルティアやオリエント諸国との外交政策

外交においてパルティア(カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国)など、オリエント諸国との外交政策も成功しました)。

イラン高原東北部パルティアに遊牧民であるアルサケスが建国。 最盛期には東のインダス川から西のユーフテラスまでの領土を形成しました。

その後東方とは、50年以上、トラヤヌスの時代まで平和を保つことができました(*113年にパルティア戦争が始まるまで)。

パルティア王国は

「ネロ帝は東方諸国にとって大恩である人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」

とネロ帝の死後に元老院に伝えられたと記録されています。

外交政策においては、ネロ帝の政策は評価されているね!

ぽん太

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下記の記事では、トラヤヌスのことについて詳しく解説をしています。

ブリタニア女王ブーティカの反乱

ブリタニア女王ブーティカの反乱

ブリタニア(イギリス南部の帝国領)で女王ブーディカを首謀者とする反乱がおきました。

ネロ帝は、反乱を冷静に鎮圧に成功しました。

maru

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ローマ兵10,000人に対して、ブーディカが率いた兵は230,000人だったと言われます。

しっかりと熟練したローマ兵の犠牲は400人程度だったと言われます。

ぽん太

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ネロ帝は鎮圧後の戦後処理も適切だったため、その後のブリタニアは平穏でありました。

五賢帝のハドリアヌスとアントニヌス・ピウスは北方民族に対しての貿易としてブリタニアに長城を築きました。

ネロ帝は、芸術の愛好家

ネロ帝は、芸術の愛好家

ネロ帝は、「ローマを芸術の京都とする」ことを夢にしていました。

ぽん太

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maru

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ネロ帝が芸術の愛好家だったことがわかるエピソードをご紹介してきますね。

オリンピア祭に対抗して、ネロ祭を開催した

オリンピア祭に対抗して、ネロ祭を開催した

60年、ネロ帝は4年に一度開催されるオリンピア祭(オリンピックの元)に対抗して、5年に1度開かれるネロ祭を開催。

体育や音楽、戦車の三部門で競い合いました。

そのうち、ネロ帝は詩、弁論、竪琴に出場して、勝利しました。

このエピソードから、ネロ帝は詩や弁論の教養があったことがわかるね!

ぽん太

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オリンピア祭にも出場して、多くの不正をして栄冠を数多く獲得しました。

詩人として、ナポリで舞台に立った

詩人として、ナポリで舞台に立ったの画像
出典: memento mori

64年には、詩人としてナポリで初めて舞台に立ちました。

ナポリには、ネロ帝が憧れを抱いているギリシャ文化が数多くあり、建築されている劇場が小さすぎるとして再建築を命じたほどであります。

ネロ帝は、数多くのローマ人と同じくギリシア文化への憧れを抱いていました。

ぽん太

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舞台の公演では、出入り口に人員を配置して逃げられないようにしました。

しかし、観客の多くはあまりの退屈さに居眠りしたり、塀をよじ登ったと言われています。

maru

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親友のウェスパシアヌスも眠ってしまい、これが原因で絶交してしまいます。

皇帝ネロの晩年とその後

皇帝ネロの晩年とその後

暴君と名付けられた皇帝ネロの晩年をどう過ごしたのかな?

ぽん太

ぽん太

maru

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これから、皇帝ネロの晩年とその後について話していきますね。

皇帝ネロの自殺

皇帝ネロの自殺

68年に、ローマ帝国の属州の一つである属州総督のガリア・ルグドゥネンシスによる反乱が勃発。

古代ローマにおいて属州の行政を任されていた総督のことです。

それに続き属州監督であったガルパも同調しました。

ネロ帝の支持率が低下している機にネロと対立していた元老院はガルパを皇帝にします。

そのことを聞くと逃亡してローマ郊外の別荘に匿われました。

しかし、ネロ帝の暗殺を企む兵士が近く音が聞こえると自らの喉を剣で貫き自殺しました(享年30歳)。

真偽ははっきりしないが死ぬ直前に言ったとされる、

「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われる事か」

という言葉は有名です。

皇帝ネロの死後

皇帝ネロの死後

ネロの死後、69年に皇帝となったアウルス・ウィテッリウスがネロの立派な争議を行います。

ネロは、民衆からの支持は高く、多くの国民が嘆きました。

死後にネロは神格化されて、ネロがよみがえったとする伝説などが数多くあります。

「ネロ帝」の論文集

「ネロ帝」の論文集

ここでは「ネロ帝」についての論文を紹介します。

ぜひ参考にしてみてくださいね!

まとめ|ネロ帝は波乱万丈な人生を送った

まとめ|ネロ帝は波乱万丈な人生を送った

さいごにネロ帝についてまとめました。

  • 家柄に恵まれた家庭で生誕
  • 初期の統治は「平和で良き時代」と呼ばれた
  • ギリシア文化に憧れを抱きあごひげを生やした最初の皇帝
  • 史上初めてキリスト教徒の迫害をおこなった
  • 外交政策には、適切な処理を行った
  • 芸術愛好家としても知られている

ネロ帝は、波乱の人生歩みましたね。

暴君としての一面はあったものの外交政策などの能力はピカイチなものがあったね!

ぽん太

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最後まで読んでいただきありがとうございます。

maru

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メディアの編集者&ライター。
「雑学を知ることで世界の視点が広がる」をテーマに、クセになる世界雑学を発信しています。

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