トラヤヌス(53年〜117年)とは、属州生まれの皇帝でありながらローマ市民から軍に支持された皇帝。また、度重なる遠征を繰り返してローマ帝国の領土を最大にしました。
ローマ帝国第13代皇帝であるトラヤヌスは、ローマ帝国史上最大の版図を実現しました。
皇帝初となるローマ帝国に支配されている属州から生まれた皇帝でした。
それまでの皇帝は、首都であるローマを含むイタリア本土出身者の者から選ばれていました。
しかし、類まれなる軍事力と娯楽事業に注力を注ぐなどして民衆・元老院から絶大な支持を受けました。
この記事では、
- トラヤヌスという人物像
- 生い立ちから皇帝即位までの出来事
- ローマ帝国史上最大の版図を成し遂げた軌跡
- トラヤヌスの晩年
- トラヤヌスが残した建造物
について筆者の考えを交えながら解説していきます。
好きな箇所から読んでみてください。

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そんな、トラヤヌスはどんな人物なのか?生い立ちから、晩年まで解説していきます。
アイキャッチ画像出典:ルーヴル美術館の古典主義絵画(3)歴史編
タップできる目次
トラヤヌスはどんな人?
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- 何代目: ローマ帝国第13代皇帝
- フルネーム: マルクス=ウルピウス=トラヤヌス
- ネルウァ帝と養子縁組した後の名は カエサル・ディウィ・ネルウァエ・フィリウス・ネルウァ・トラヤヌス
- 生没: 53年〜117年 (享年63歳)
- 在位: 98年〜117年 (19年6カ月間)
トラヤヌスは、五賢帝二人目の皇帝です。
軍人として名声を得た後、先帝ネルウァの養子となりました。
ネルウァの死後、元老院に推されローマ帝国第13代皇帝として即位しました。
遠征を繰り返し、ローマ史上最大の版図を実現させました。

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トラヤヌスは初の属州スペイン(イスパニア)出身の初のローマ皇帝でした。
五賢帝最後の皇帝であるマルクス・アウレリウスの時代まで平和な時代が続いたよ!

ぽん太
トラヤヌスの年表

西暦 (年齢)
- 53年(0歳)
- 元老院議員マルクス・ウルピウス・トラヤヌスを父に、マルキアを母に、現スペインのセビリヤ近郊の イタリカで誕生。
- 54年(1歳)
- クラウディウス帝死去(享年63歳)
- ネロ帝(16歳)即位
- 67年(14歳)
- トラヤヌスがユダヤ戦争に指揮官として出陣
- 68年(14歳)
- ガルバ帝(70歳)即位
- ネロ帝は自殺に追い込まれる(享年30歳)
- 70年(17歳)
- 父トラヤヌスが執政官就任
- 74年(21歳)
- 父トラヤヌスがシリア総督就任
- トラヤヌスも父の配下として司令官に就任
- 76年(23歳)
- 財務官(クァエストル)に就任
- 84年(31歳)
- 法務官(プラエトル)に就任
- 86年(33歳)
- ヒスパニア・タラコネンシス属州に第7軍団ゲミナ(Legio VII Gemina)のレガトゥス・レギオニス(軍団長)として駐留
- 91年(38歳)
- 執政官(コンスル)に就任
- 96年(43歳)
- 暴君ドミティアヌス帝(44歳)が側近に暗殺され、ネルウァ帝(60歳)が即位
- ネルウァ帝によって、上ゲルマニア属州総督に任命される
- 97年(44歳)
- ネルウァ帝と養子縁組し、後継者となる
- 98年(44歳)
- 任地の上ゲルマニアにとどまったままローマ皇帝に即位
- 99年(46歳)
- 徒歩で街へ入ったため、民衆からの人気を得る
- 101年(47歳)
- 軍を率いてダキア(現在のルーマニア)に遠征、勝利を収める
- 102年(48歳)
- ダキア王国の首都セルミゼゲトゥサを包囲
- ダキア王デケバルス(年齢不詳)と講和
- 105年(51歳)
- 再度ダキア遠征
- ダキア王デケバルスを破る
- デケバルスは自決。
- 106年(53歳)
- ダキア王国をローマの属州として併合
- 112年(59歳)
- トラヤヌス広場完成、一般公開
- 113年(60歳)
- トラヤヌス柱の記念柱完成、一般公開
- 114年(61歳)
- パルティア王国遠征
- 115年(62歳)
- メソポタミア(現在のイラク)に侵攻
- 116年(63歳)
- メソポタミア全土を征服
- メソポタミアで住民が反乱したがこれを鎮圧
- 117年(63歳)
- 砂漠の都市国家ハトラ攻略に失敗
- 8月9日に病死
トラヤヌスの生い立ちから皇帝即位まで
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トラヤヌスの生い立ちから皇帝即位のきっかけを説明するよ。
トラヤヌスの生い立ちについて
トラヤヌスは、属州下のスペイン南部のイタリカ(現アンダルシア地方)という都市で誕生しました。
父親は元老院議院マルクスウ・ルピウス・トラヤヌス(23歳)と母のマルキア(20歳)の元で生まれました。
事実上、政治の支配者であった元老院になるためには、
- 40万(現代の40億円に相当)セステルティウス以上保有している者
- 高位の役職を経験している者
- 奴隷を解放された市民ではない者
オリーブオイルの生産が盛んであり、ローマ帝国が支配している属州の中でローマを受け入れていた属州でした。
トラヤヌスの父は、老院議員だったため青年期を迎える21歳になる頃から、キャリアに優位に働きました。
トラヤヌスのキャリア軌跡は、
- 74年: 司令官に就任
- 76年: 財務官(クァエストル)に就任
- 84年: 務官(プラエトル)に就任
- 86年: ヒスパニア・タラコネンシス属州(現ポルトガル を含んだスペイン北部)の軍団長として活躍
上記のようなキャリアを順調に築いていきます。
トラヤヌスは、ライン川防衛に任命されていたゲルマニア属州総督ルキウス・アントニウス ・サトゥルニヌスの反乱を鎮圧します。
それから、トラヤヌスは徐々に頭角を表していきます。
38歳になる、91年には執政官(コンスル)の就任に伴うローマ凱旋時を果たす時です。

ぽん太
トラヤヌスが生まれた、イタリカはセビージャの近くにあるね!
トラヤヌスの皇帝即位のきっかけ
96年に、市民から不人気であったドミティアヌス帝が側近に暗殺されます。
そのため、急遽ネルウァ帝が臨時の君主のような役割で皇帝として即位します。
ネルウァ帝は、老齢でありながら帝位継承させる血の繋がっている者がいなかったため、世襲制度ではなく養子を迎えて後継者に指名しようと考えます。
そこで、当時将軍として活躍していて軍からも支持があるトラヤヌスを後継者にすることにしました。
ゲルマニア(北方民族)は、長年ローマ帝国を苦しめている民族であり、一番強い将軍が総督に任せられることが多かったのです。

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トラヤヌスの皇帝即位
ネルウァは、わずか2年間で治世を終わらせます。
なので、トラヤヌスはすぐに皇帝として即位することができました。
トラヤヌスは、頻繁に街中を歩くなどして、民衆に寄り添った統治を行いました。
そのような背景もあり、トラヤヌスは民衆から好意的に受け止められていたといいます。
また、トラヤヌス自身も暴君ドミティアヌスが民衆からの支持を失った原因である抑圧的な統治を極力避けて、平穏な統治を心がけたことも好意的に受け止められた理由の一つです。
暴君ドミティアヌス時代に不当な理由で投獄された囚人を開放する活動や不当に没収されていた私有財産を元の所有者に返還する運動(デモ)を行いました。

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トラヤヌスは、その人気から「オプティムス」(至高の皇帝)という称号を与えられたね!
2度にわたる歴史的な戦勝

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トラヤヌス帝が得た最大版図の距離は、15万キロに到達すると言われているよね。
第一次ダキア戦争
ダキア戦争は、101年から102年、および105年から106年の2次に渡るローマ帝国とダキア人(現ルーマニアに住んでいた民族)との戦争です。
トラヤヌスが後の世に名を残すことになった、歴史的な戦いの一つがダキア戦争です。
紀元前70年頃、ローマ帝国がダキア王国を支配しようと攻撃を仕掛けて失敗に終わったことがありました。
それ以後、ダキア王国は勢いをつけて勢力を拡大していきました。
それは、ローマ帝国の地域ものみ込まれる勢いだったそうです。
このことを踏まえて、皇帝であるトラヤヌスはダキア地方への遠征を決意して、ダキア王国との戦争を始めました。
101年に1度目の遠征が開始されダキア軍に勝利し、続いてドナウ川で起こった大規模な戦いでもローマ軍はダキア軍に勝利します。
翌年の戦いを経て、ダキア王国の王デケバルスはトラヤヌスに降伏をしました。
首都ローマへ勝利の凱旋したトラヤヌスは元老院から軍事功績を称えられ「ダキクス・マキシムス」の称号を与えられました。
第二次ダキア戦争
ダキア族の王であるデケバルスは、兵を集めて反乱軍を結成します。
105年に、ドナウ川流域に駐屯していたローマ帝国の属州を攻撃したことで第二次ダキア戦争が始まりました。
トラヤヌスは、南ダキアに再度新征をして、第二次ダキア戦争は激しい攻防戦の末にダキア王国の首都であるサルミゼゲトゥサ・レギを陥落させます。
そうして、長くに渡って悩まされていたダキア人との戦争が集結しました。
パルティア戦争
トラヤヌスが60歳を迎える113年に、新たな戦争を開始しました。
戦争の原因は、当時パルティア王国とローマ帝国の緩衝地帯出会ったアルメニア王国に、事実上パルティア王国が支配する出来事が起こります。
パルティアの王であるオスロエス1世が、傀儡君主パルタマシリスをパルティア王国の王として即位させました。
これは、ローマ帝国への威圧と捉えることができる出来事です。
また、トラヤヌス自身は即位15周年記念祭への侮辱行為と受け取りました。
パルティアは海と接していて陸路の交通の要ともなっていたため、重要拠点と考えられている場所だったので、この出来事を機にローマ軍は遠征を行いました。
114年の春に総兵力8万の軍勢で、アルメニア全土の制圧を行い、アルメニア属州はローマ帝国の支配下となりました。
115年には、パルティア北部の複属を実現して、翌年にパルティアの首都であるクテシフォンを無抵抗のうちに占領しました。
以後、トラヤヌスは元老院から贈られた「パルティクス」(パルティアの征服者)の称号を名乗るようになります。

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パルティア戦争を経て、ローマ帝国史上最大の版図を実現させました。
東方諸国との戦争は、第5代ローマ皇帝であるネロ帝以来の出来事だったね!

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トラヤヌスの晩年
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パルティア戦争直後に征服地での反乱が相次ぎました。
パルティア戦争で争ったオスロエス1世の甥サナルトケスがアルメニアにて、亡命政権を樹立しました。
アルメニアではオスロエス1世の甥サナトルケスが亡命政権を樹立しました。
ユダヤ教徒の大規模な反乱も数百年ぶりに勃発し、メソポタミア属州総督が戦死しました。
メソポタミアの属州維持が困難になったため、トラヤヌスは再度遠征へと向かう準備を行いますが健康状態が悪化したため実現不可能となりました。
イタリアに帰還しようと試みましたが、その間に時間は過ぎて状況は悪くなる一方でした。
そのまま、病状が回復することなく、117年に属州のセリヌスに到着した後に崩御しました。
トラヤヌスの帝位後継者についての話を伝えられていた皇后により、ハドリアヌスが皇帝として即位しました。
トラヤヌスは、テルマエ(公衆浴場)を好んだ?
ヤマザキマリによる漫画作品『テルマエ・ロマエ』の皇帝としても登場するトラヤヌスは大のテルマエ好きだったと言われています。
テルマエの起源は、古代ギリシャから始まりました。
ローマ帝国でテルマエ(公衆浴場)の数が増え始めたキッカケは、初代ローマ皇帝の右腕であるアウグストゥス帝が娯楽施設としての浴場。
いわゆる、テルマエ(公衆浴場)を作り始めてローマ帝国内に広がりました。
104年から107年にトラヤヌスの命でオッピウスの丘の南の斜面に複合施設であるトラヤヌス浴場を建設しました。
トラヤヌス浴場の施設は以下の通りです。
- アポディテリウム(脱衣場)
- 服を脱ぐ場所
- テピダリウム(微温浴室)
- 適度な温度の空気で満たされた浴室
- ぬるめのお湯で満たした浴槽があるか、もしくはお湯が張られていないこともあった
- カルダリウム(高温浴室)
- テピダリウムよりも高い温度の部屋
- フリギダリウム(冷浴室)
- 水風呂
- プールとして利用されることもあった
- 図書館
- 様々な書物が置いてあったと言われています
トラヤヌスの浴場は、ゴート族がローマを包囲するまで(537年まで)使われていました。
民衆にも支持されるトラヤヌスならではの浴場だね!

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トラヤヌスの記念柱と市場
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トラヤヌスは、市民の皇帝として振る舞ったことでも知られています。
ローマ帝国第15代皇帝であるアントニヌス・ピウスも市民の皇帝として振る舞ったと言われています。
ローマ市内に建てられた記念柱やダキア戦争での勝利を祝いして建てられたトラヤヌスのフィルムなどがあります。
また、人類史上初のショッピングセンターと言われているトラヤヌスの市場やトラヤナ街道、新トラヤナ街道などのインフラ整備にも努めました。
なかでも、記念柱とトラヤヌスの市場が有名だね!

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これから、トラヤヌスの記念柱と史上初のショッピングセンターといわれるトラヤヌスの市場について解説します。
トラヤヌスの記念柱とは?

トラヤヌス帝の記念柱はダキア戦争の勝利を記念して、建設されました。
建てられた位置は観光地として有名であるフォロ・ロマーノの北、クイリナーレの丘付近に建設されました。
柱の高さは40メートルにも及び、様々なフリーズ(帯状彫刻)が施されました。
当時円柱の上から下まで続く、フリーズ(帯状彫刻)には、色が塗られ船員、兵士、政治家、神官など総勢2,500人の人間が描かれていました。
113年に完成されたトラヤヌス帝の記念柱は、その後の柱のモチーフの参考にされました。

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トラヤヌス帝の記念柱は、要塞や船や武器なども描かれているため、歴史家にとっては当時の戦争についての貴重な知識を提供していたって言われてるよね!
トラヤヌスの市場は人類史上初のショッピングセンター?

トラヤヌスの公共施策の代表作が、人類史上初のショッピングセンターと言われるトラヤヌスの市場です。
トラヤヌスに仕えていた建築家ダマスカスのアポロドーロスが建設しました。
中世を迎えると防御用の階段が追加されました。
建設当時は、小麦を無料でローマ市民に配布していた。
また、市場の上層階は事務所として使われ、下層階にあたるトラヤヌスのフォルムに面した部分は油、ワイン、魚介類、食料雑貨、野菜、果実などの商店が並ぶ充実ぶりでした。
市場内には、オーディションや演奏会が行われいたホールも存在します。
建設から約1900年経った今でも多くの観光客が訪れています。
民衆に無料で小麦を配ったり、商店が並ぶ姿を想像するとまさにショッピングセンターだね!

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現在、建物は博物館として一般公開されています。
入場料は、時期によって変動しますが€7~12と言われています。(*日本円で750円〜1300円)
「トラヤヌス」の論文集

ここでは「トラヤヌス」についての論文を紹介します。
ぜひ参考にしてみてくださいね!
まとめ | トラヤヌスは最も実力のある皇帝

さいごにトラヤヌスについてまとめました。
- ローマ史上最大版図を実現
- 市民と元老院から、常に支持されていた
- イタリア本土出身ではなく初の属州生まれの皇帝だった
- 公共施策にも注力した
- テルマエ(公衆浴場)好きだった
トラヤヌスは、元老院から民衆から支持された皇帝です。
アウグストゥスが「最も幸運な皇帝」と呼ばれたのに対し、トラヤヌスは「最も立派な皇帝」 「最も実力のある皇帝」と呼ばれました。
トラヤヌスは、軍事にも内政にも優れていた君主でした。
皇帝としての目線ではなく、ローマの町を歩いて市民との交流も多かったことから、元老院だけでなく市民からの支持も厚かったです。
そのため、現在に至るまで名君として讃えられています。